一九一八年(大正七)は塩生産高の減少が著しく、県下で約四〇〇〇万斤の減少となった。同年十月大蔵省の塩再製塩工場建設計画が伝わると、地元の対応は早く、塩田所有者の矢島専平ら六人はただちに協議会を開いた。その二日後の十月三日には町議会を開き、工場建設について「本町モ有力ナル候補地」(「下松町議会会議録」)であるから設置には「本町ハ熱誠以テ之ヲ援助」(同前書)して便宜を与えると決議し、金清要一ら四名の臨時委員を選出して対策を協議させた。あたかも久原工場建設のための土地買収は終了したが当初の計画より縮少して着工した段階であり、下松町にとっては好都合であった。専売局工場敷地予定地はすでに久原家に売却済みであったため、その交渉も含めての協議会であった。その結果、町議会でつぎの事項を決議した(「下松町町会会議録」)。①十月十五日までに久原の買収価格で用地を買収し、三田尻専売局長に回答する。②専売局下松出張所正面から停留場までの道路を部分的に幅二間に拡張する。③三田尻専売局長の指示があればただちに工場予定地の盛土に着手する。④買収敷地内の建物移転は町の責任で実施し、その交渉・経費などは一切専売局へ請求しないこと、であった。製塩工場は一九一八年内に建設が始まったものと思われ、翌年三月に完成、四月から加工塩の製造を開始し、二〇年十一月からは食卓塩の製造を開始した。