ビューア該当ページ

大正期以降の下松塩田

586 ~ 587 / 1124ページ
 一九一二年(大正一)九七町七反余あった下松塩田は、漸次工場用地として埋め立てられ、生産性の低い塩田は塩田整理の対象となり、下松塩田の面積は東部から減少していった。一九二七年(昭和二)になると、下松塩田は五一町九反余、浜戸数二六戸、四等、五等品計八六〇万斤余(『大下松大観』)になっているから、大正期に面積・生産高ともに半減したことになる。この間、塩の精製技術が進歩し、また再製塩工場では食卓塩は当初紙の容器詰であったが、二六年からガラスビン詰とし、一般家庭用として販路を拡大した。下松港の輸入塩は関東州および台湾塩であり、輸入塩はいったん溶解して精製し、国内塩の一等塩は真空式二重効用缶で、二等塩は煎熬(せんごう)(煮つめる)して精製された。