旧来の農業の改良を図るため県は種苗の紹介や入手を勧め、山口の栽培試験場を通じて新しい技術の普及をはかった。各町村に勧業委員を設置させるなど勧業政策を推進し、町村費の支弁によって稲作の害虫駆除を奨励した。勘場のあった花岡は早くも一八八四年(明治十七)に戸長役場裏の空地を開墾して生野屋・末武中・末武上村の栽培試験場として交換種を試作し、結果をみてその新種を各農家へ配分するものとした(「生野屋村末武中村末武北村連合村会会議録」)。
稲の正画植えの奨励は、反当収穫効率の向上についての理解が難しいことと田植えに手間がかかるため、各町村はその奨励に苦慮した。末武北村の正画植え普及状況をみると、一九〇一年(明治三十四)に村内の半分が実施している状況であったが、督励員を村費で雇い入れて早乙女組を組織して賃植えをさせるなど、奨励に努めた結果その五年後には全農家が実施するに至った(「末武北村事務報告」)。これで完全実施となったわけでなく、その後も引続き督励しなければならなかった。正画植えとともに短柵苗代も同様に共同苗代として督励された。種子については一八八七年(明治二十)以降塩水選が役場を通して普及された。末武北村はこれらの普及をはかり、村内巡回教授を雇い入れるなど努力の結果、一九〇六年(明治三十九)ごろに漸く共同集合苗代が村内に普及した(「末武北村事務報告」)。
肥料の改良については、末武北村村内三カ所に堆肥場を設置し、県農業学校農事試験場の模範農場へ一〇名を視察に行かせ、また、末武北村で開かれた東部連合農事講習会へ二〇名を入会させ、二週間にわたって受講させるなどの改良に取り組んだ(同前書)。一九一四年(大正三)の久保村の肥料改善をみると、村当局は毎年勧業世話掛に勧誘をさせ、農会では堆肥品評会を開き、堆肥場新設者へ二円を補助し、また緑肥の使用と種子の共同購入などを関係係員に村内を巡回させて指導した(「久保村勧業一件」)。下松地域では大正中期から化学肥料の使用が始まり、その後、化学肥料の使用過多を指摘されるほどであった(「末武北村事務報告」)。