大礼記念末武南村末武北村耕地整理組合は一九一七年(大正六)二月二十七日から工事に着工し、二一年三月十日の完了まで、約四年間かかった大工事であった。末武平野の中央に位置するこの地域はたびたび浸水のある湿田地域であるため、工事の目的は暗渠排水を主にし、併せて道路や水路の改修と区画の整理を行おうとするものであった。整理地区七四町五反余のうち田地が六七町五反余で、そのほか宅地と畑地が点在していた。整理組合長に末武南村の古谷小作、組合副長に堀喜代彦、評議員に植杉佐武郎、武居伴助、河村勝蔵、田村嘉作、金近寿作、小林収三が就任した。工事費のうち起債額二万二五八六円は日本勧業銀行等から年利八分三厘で借入し、一〇カ年賦で償還する計画であった。一六年十二月の工事予算では暗渠排水工事費は八四一八円余であったが、折からの物価騰貴により一八年五月には一万二二七四円余と一・五倍に騰貴した。そのため六一四六円の起債追加をしなければならなくなり、起債総額は二万八七三二円余となった。工事着工当時、整理事業の効果に疑いを持ち整理組合に入らない地主がいたが、一九年に至り整理を希望するようになった。二一年三月に工事は完了して換地事業に移ったが、年賦償還等が終わるまで耕地整理組合は存続した(「耕地整理組合」山口県文書館蔵)。
大礼記念末武耕地整理地区の位置図
(大正6年)(耕地整理組合)(県庁戦前A農1407)
大礼記念末武耕地整理地区の完成図
(大正6年)(耕地整理組合)(県庁戦前A農1407)
その他、久保村出合の耕地整理は耕作道と排水工事を目的とし、換地は一切実施しなかった。この地域はほとんどが田地であり、副業として煙草栽培が少々行われていたが、工事費は起債で支弁した(同)。一九二九年から三〇年にかけて下松地域の塩田が廃止されたものがあり、宮ノ洲や新地などの区画整理が実施された。
久保村出合耕理整理地区の現形図と予定図
(昭和5年)(耕地整理組合)(県庁戦前A農1397)