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害虫の駆除

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 稲田の害虫駆除は近世期以来の課題で毎年の必行事項であった。一八九七年(明治三十)夏以来螟虫(めいちゅう)の大発生の兆しがあり、大がかりな駆除が実施された。末武北村では稲作付反別に賦課して三五〇円の駆除費を徴収し、虫害を受けて稲茎の抜き取りを実施するとともに点火法を実施した。点火法の内容は陰暦七月五日より一町歩ごとに殺虫灯三個の割で点火誘致し、各部落に取締人をおいて監督させた。石油代や取締人の手当は地主負担で、点火人夫賃は耕作者の負担とした。稲枯穂の切り取りはせっかく育てた稲の廃棄であるため、「各所ニ苦情百出シ警察ノ出張ヲ乞、説示抔シテ終ニハ二三ノ犯則者ヲ出ス」(「末武北事務報告」)ような状況であり、また下松町長が命令を伝えても「頑迷ノ輩ハ彼是レト口実ヲ設ケ右実行ヲ遁レントスルモノ」(「下松町事務報告」)もあり、県の告諭の実行に各町村役場は苦慮した。
 一九一五年(大正四)夏、とくに米川村に泥負虫が異常発生し、郡技手の派遣と郡令発布により駆除した。米川村の発生反別二〇二町、被害茎抜き取り一七八貫余であった(「米川村事務報告」)。同年都濃郡内に郡長告示が出され、村内を小区分して螟虫を駆除するよう命じられた。下松町では告示をうけて村内を一六区に分け螟虫卵の買上げを行い、その費用は一二三円余にもなった(「下松町事務報告」)。末武南村は一一区にわけて駆除した(「末武南村事務報告」)。