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農業生産の構造

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 下松地域は南北高低の差が大きく、農業生産の構造に相違がみられる。表9の地目別面積を最北の米川村と平野部の末武北村を比べてみると、米川村は山林が約七割を占め、末武川に沿って田地約二割にすぎない山間地域である。末武北村は末武川の下流地域であるため田畑が約半分、山林が約三割で、その他が約二割である。一戸当たりの田畑平均耕作面積は米川村が八反であるが、末武北村は五反と狭くなる。
表9 明治末年の地目別面積
米川村末武北村
町   %町   %
田地332 (19.4)419 (49.4)
畑地77 ( 4.5)68 ( 8.0)
宅地28 ( 1.6)32 ( 3.7)
山林1,245 (72.7)252 (29.6)
原野31 ( 1.8)78 ( 9.2)
1,713 (100.0)851 (99.9)
明治42、米川村庶務統計
明治45、末武北村事績概要 による
表10 耕地保有状況(1913年)
米川村下松町
戸数 (%)戸数 (%)
戸  %
10町歩以上0 ( 0)1 ( 0.2)
10町歩未満1 ( 0.2)15 ( 2.6)
5町歩 〃 83 (16.8)44 ( 7.7)
1町歩 〃 101 (20.4)83 (14.5)
5反歩 〃 296 (59.9)363 (63.6)
無耕地13 ( 2.6)65 (11.4)
494 (99.9)571 (100.0)
明治42、米川村庶務統計
明治45、末武北村事績概要 による

 表10で耕地の保有状況を下松町と米川村で比べてみると、下松町には大地主が存在し、その反面、無耕地小作人が約一割、そのうえ農業の経営規模が小さい。米川村は下松町より平均経営面積が大きく、耕地と山林を保有した農業であり、無耕地小作人はわずか二パーセントにすぎない。地主小作関係については下松町は小作人が多く、米川村は少なく、下松町は商業化が進んでいることを示しており、田地の九割、総面積の約八割五分が小作地である(表11)。当時下松町は表12の小作人数でも農家戸数の六六パーセントが小作人となっており、これは塩田経営者等が耕地を保有しているためである。米川村は一九一九年(大正八)になると経営規模は五町歩以上の耕地保有者がなくなり、計四七一戸のうち五町歩未満一一八戸(三九・九パーセント)、一町歩未満一七一戸(三六・三パーセント)、五反歩未満一一二戸(二三・七パーセント)となり、五反歩未満層が減少し、一~五町歩層が増加する。これは農家経営の改善がはかられたためであろう(「米川村庶務統計」)。
表11 自作・小作地の面積(1913年)
下松町米川村
計 (%)計 (%)
  町  町      %  町  町      %
自作地 19.520.0 39.5 (14.0)121.245.2166.4 (40.3)
小作地177.266.1243.3 (86.0)213.932.2246.1 (59.6)
196.786.1282.8(100.0)335.177.4412.5 (99.9)
「下松町庶務一件」「米川村庶務統計」による。
村外耕作者保有地を含まない

表12 自作・小作戸数(1913年)
下松町米川村
戸数(%)戸数(%)
 戸 戸
自  作 79 (13.8)210 (42.5)
自作兼小作115 (20.1)102 (20.6)
小  作377 (66.0)182 (36.8)
571 (99.9)494 (99.9)
「米川村庶務統計」「下松町庶務一件」による

 表13の職種別戸数は年が異なっているとはいえ、その傾向は把握できる。米川村は農業戸数が八八パーセントを占め農業が主体であるが、下松町と末武北村は農業が約四〇パーセントで商業と工業に重点がある。下松町は特に一九一七年(大正六)の久原工場建設計画発表以来工業人口が増加し、一三年の工業人口五〇〇人が、一九二八年(昭和三)には一五五五人、三〇年には二四四三人と増加する。また下松町の農業人口と商業人口はほとんど変化ないが、商業の経営規模は大きくなった(『大下松大観』)。
表13 職種別戸数
下松町末武北村米川村
(1913年)(1911年)(1915年)
戸   %戸   %戸   %
農 業571 (40.6)385 (42.9)442 (88.0)
商 業503 (35.7)243 (27.1)15 ( 2.9)
漁 業183 (13.0)66 ( 7.3)
工 業 90 ( 6.4)166 (18.5)6 ( 1.2)
その他 40 ( 2.8)38 ( 4.2)39 ( 7.8)
不 詳 20 ( 1.4)
1,407 (99.9)898(100.0)502 (99.9)
「下松町庶務一件」「米川村庶務統計」
「末武北村事績概要」
による