茶は都濃郡北部村落で栽培された。下松地域では米川村のみであり、自然木で一番茶だけを摘葉していたようである。都濃郡須金村には県の茶業伝習所があり、指導を受けて栽培されるようになった。すなわち、一九一八年(大正七)になって米川村役場で茶業懇談会を開き、また須金村の茶業伝習所へ一名を推薦入所させて学ばせた(「米川村事務報告」)。茶だけでなく、米川村の木炭業者は一八年、防長木炭同業組合に三〇名加入しており、木炭も重要な生産物であった。
専売局下松出張所の煙草の収納業務開始は一九二六年(昭和元年)からであり、再乾燥場が設立されたのが三一年であった。これ以前の一九〇〇年(明治三十三)、末武北村は葉煙草伝習人を呼び寄せ、三人に実習させているが、同年十二月に勅令で美禰郡内四か村以外は煙草栽培設定区域から除外され禁止となった(『山口県議会史』上巻)。したがって下松地域で煙草耕作が開始されるのは一九二五年(大正十四)以降であった。同年下松町で米国種煙草試作許可をうけ一三町五反を試作地とし、翌年町は四四八円の奨励金を出して指導した結果、耕作者一三二人、試作地一〇町余、収量三五〇〇貫(八八〇〇円)となった(「下松町事務報告」)。末武南村は二六年笠戸島の深浦、尾郷・藤光の三部落を煙草試作地に選定して試作し、「隣町村ノ成績ヲ見ルニ相当収入アリテ農家ノ副業トシテ最モ適セリ」(「末武南村事務報告」)との状況判断から栽培に着手し、翌年三三五五円の収益をあげた。同二六年久保村煙草耕作組合、二七年(昭和二)米川村にも同組合(試作地三町六反歩)が組織された。久保村の同組合は三一年に組合員二一二人、耕作地四二町九反余、収量一万七〇〇〇貫余(『久保村郷土誌』)となり、久保村の葉煙草生産の急激な増加は蚕繭生産を圧迫する一因にもなった。
果樹は一九〇一年(明治三十四)ごろから末武北村で積極的に奨励され、都濃郡各村連合蔬菜果実品評会に花岡尋常小学校高等科生徒が七〇点を出品するほどであり、苗木を共同で購入したり、果実の堆肥品評会も開催された。末武南村は大正に入ってから、桃・柿・蜜柑・梨等の栽培が盛んとなり、「果実ニ在リテハ品質及量ニ於テ県下最上位」(「末武南村事務報告」)と評価され、末武南村園芸会と村当局は共同して年一回の講習会を開いて奨励した。青果市場の設置は下松町が一九三一年(昭和六)、末武南村はその前年であった。