その他の副業として塩叺・麦稈・経木・真田等があった。塩叺は下松塩田用として広く生産された。久保村の一九一一年(明治四十四)の生産高をみると、塩田用小縄二万束、塩菰三万枚であった(「久保村事務報告」)。末武南村の一九一六年(大正五)の塩菰の生産高は一二万枚余であった(「末武南村事務報告」)。麦稈・経木・真田について末武北村は一九〇二年(明治二十五)伝習所を一カ月にわたって開設し、同年の受講生四〇人が翌年には一二〇人にも達し、「此事業ハ婦女子ノ業トシテハ将来有望」(「末武北村事務報告」)なものとして奨励し、一九〇四年には「従事セザル者ハ殆ドコレナク好成績」(同前書)な状況であった。他町村でも同様であった。その他米川・久保両村では楮の生産があった。