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小作争議

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 農村不況を背景に地主と小作人の対立は深刻であった。まず太華村で一九一七年(大正六)に小作争議が発生した。下松地域は少し遅れて発生した。表18は小作官の調停を受けたもののみである。小作争議の原因は小作米の減額要求と地主の小作地引上げが多く、地主は随時地主組合を結成して対抗した。単なる要求や調停まで至らないものを含めると、さらに多くの争議があったと思われる。
表18 下松地域の小作争議
場所発生終息参加人員土地面積要求結果
地主小作人
年 月 日年 月 日
末武北村1925. 4.241925. 5.11147,000小作地返還要求に対し鎌先料反当120円要求反当10円の寸志金を交付して小作地返還
1925. 8.151925. 9.291 12,720小作地返還要求に対し鎌先料反当500円要求無条件小作地返還
1926. 6.191926. 7. 42 29,614小作地返還要求に対し作離料350円要求170円を2人の小作人の反別に割って交付し小作地返還
米川村1929. 3.181929. 5. 11 12,416小作料減額要求前年度の小作料全免し小作地返還
「小作争議一覧」(1922年山口県文書館蔵)
「小作調停一件」(1927年山口県文書館蔵) による

 小作争議の実態を記してみよう。一九二五年(大正十四)四月二十四日に発生した末武北村の小作争議は、末武南村の地主が小作地返還を通告したことが発端であった。この地主は十数年前ハワイへ出稼ぎに行き、三年前一時帰国して帰国後のために田地を購入した。再渡航に際し帰国までの約束で田地を小作地とした。帰国後小作地返還を通告したところ、日本農民組合山口県連合会が後援して契約不履行として鍬下料反当一二〇円を要求した。これは地主の拒否するところとなり、小作官補の調停となった。結局、反当一〇円を交付することで収束した。小作人には争議にする気はなかったようであったが、小作人が小作権の継続を要求したものであった(「小作争議一覧」山口県文書館蔵)。
 末武北村のある小作人は一九一〇年(明治四十三)から寺院の畑地を小作していた。この小作人は自己の労力で一三年から田地化し、一〇カ年間は小作米四斗の定めであった。一〇年後の一九二三年(大正十二)から小作米一石となるはずであったが、旱魃で稲の植付けができず大豆を植えた。当然小作米納入ができず、二五年八月、門徒総代は小作地引上げを通告した。当初、小作人に争意はなかったが、権利にめざめて開墾人夫賃として八〇〇円、のち五〇〇円を要求した。調停の結果、小作地は無条件で返還し、小作人に別の田地二反を小作させることで決着した(「小作争議一覧」山口県文書館蔵)。
 小作争議は小作人の弱い立場を小作組合が支援して展開した。一九二四年以降、小作組合が多く設立されて争議件数が増加した。多くの地主は小作官の調停を申請した。小作組合の活動が不活発となるとともに争議件数は減少した。