藩有の御立山は地租改正によって官有林とされ、笠戸島の御立山などは官有林に編入された。山野は従来から入会地として牛馬の飼料・芝草・薪等の採取に使用される慣行があり、また村内だけの入会でなく他村との入会慣行と重なって複雑であった。
一八八二年(明治十五)一月、官有民有の区分未定の山林は、下松地域で約五〇〇町歩あり、証拠書類のないほとんどの山林は官有林とされた。だが指示があるまでは従来からの慣行が認められ、芝草等を採取することができた。河内・山田・生野屋村の入会山野は再度願い出たが、証文がないため官有林に編入された(「山野慣行成跡取調上申書」山口県文書館蔵)。
官有林編入によって従来からの入会慣行に乱れが生じ、八五年瀬戸村の山林の柴芝草採取をめぐって末武中村・末武下村と大藤谷村・生野屋村との間で争論となった。県庁地理掛が間に入り協議したが結論はでなかった(「米川村官有山野一件書類」)。