大島村の山野は豊井村、粟屋村、徳山村、富田村の秣(まぐさ)採取地であり、山野二〇〇町歩のなかに境界が定めてなかった(「山野慣行成跡取調書」)。このうち字浅ヵ袋、字洗川等約半分の一〇八町五反余は豊井村の柴芝草採取地であった。一八九七年(明治三十)豊井村は下戻申請をしたが、一九〇四年不許可となったため違法処分取消の訴訟を起こした。この行政訴訟は一九〇九年勝訴となり、豊井村は大島山野下戻の宣告を受けた(「豊井村事務報告」)。大島山野のうち字浅ヵ袋・池ノ浦・卯ッ木は当分芝草採取地とするが、将来、天然林とする方針で経営された。のち、一九二〇年(大正九)字池ノ浦に防火線工事が施されたが、その二年後に六四町歩を焼失したため、二六年長さ一〇七〇間、幅二間の防火線が完成した(「下松町事務報告」)。