ビューア該当ページ

鉱産物

613 ~ 613 / 1124ページ
 笠戸島字野山で一九一二年(大正元)広島の中光哲郎が青体砥採掘の契約を結び、砥石一〇貫につき五〇銭で売却した。六月から十二月までの採掘で三三六〇貫(一六四円七〇銭)を産出し、好結果であったことから、翌年以後大々的な工事をすることにした。契約年限を延長し、一九二七年(昭和二)七三三五貫(二四八円五四銭)を産出した(「末武南村事務報告」)。
 久保村の成川や山田などの地域で明治中期にマンガンを、大正初期に水鉛鉱を採掘した。添谷吉原では石炭を産出し、三〇年の産出高は一七万五〇〇〇貫(一万五〇〇円)であった(『久保村郷土誌』)。