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豊井村の鯔漁

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 東西豊井村の鯔漁は旧徳山藩の免許を得て紀州漁民の指導によって、鯔網に改良を加え創始したものであった。豊井村の鯔網は縦一五〇尋、横一〇〇尋あり、これを海中に敷き、山上の魚見役の合図で船一九~二〇艘で引きあげるものであった。冬期の鯔漁は鯔の追込みによる打張網を使用し、春は敷網で操業した(「水産慣例原稿」山口県文書館蔵)。
 一八七五年(明治八)、東豊井村の小島信左衛門は旧藩以来の慣行にしたがい鯔網営業鑑札の下付を願い出、七七年七月に免許金七五銭(県税)で鑑札の下付を受けた。この後八二年と九五年に税制改定にともない免許を更新した。一九〇二年(明治三十五)七月、漁業法の施行で網代ごとに専用漁業権の申請をすることになった。下松町の小島与左衛門は従来の慣行から、下松町字漁ヶ浜と太華村大字大島沿海における鯔網漁の専用漁業権免許を出願した。太華村からも出願があり、網代が重複して従来からの争論が再燃した。下松町の小島与左衛門は資料を付して申請したが、太華村は資料に乏しく自村の地先海面での慣行漁業権を主張し、妥協する以外解決の道はなかったようである(「専用漁業免許願」山口県文書館蔵)。漁業は勧業政策のうちで最も立ち遅れており、漁業法の施行も遅く、それだけに近世以来の争論と混乱がくりかえされた。

東豊井村の鯔敷網(「水産慣例原稿」山口県文書館蔵)


末武下村の帆曳網(「水産慣例原稿」山口県文書館蔵)


豊井村の鯔漁網代(「水産慣例原稿」山口県文書館蔵)

 一九〇一年(明治三十四)の下松町の漁業内容をみると、表23に示したように約六パーセントの漁民が大敷網を操業し、税額の四分の一を納入している。二等と三等で税額が大きく異なるから、三等以下は中小漁業と考えられ、中小漁民は小網漁や釣漁で雑魚漁をしており、約九四パーセントの漁民が従事していた(「下松町議事録」)。下松町の漁民数は一九〇七年に一二三人、一九一六年(大正五)に一三九人であった。この増加は下松町の商工業戸数の増加と比較して多いとはいえない(「下松町庶務一件」)。
表23 下松町の漁業税分賦額と人数(1901年)
等級分賦額人数課税課目
11.8123.62大網魚
21.5046.00
30.383011.40小網・釣・雑漁
40.29308.70
50.22275.94
60.1781.36
10137.02
「下松町議事録」による