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魚業組合と魚市場

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 漁業法の施行によって、専用免許の出願は各町村の漁業組合を通じて行うものとされた。したがって各町村に漁業組合が設立された。下松町漁業組合は一九〇二年(明治三十五)に、笠戸漁業組合は一九〇一年、深浦漁業組合は一九〇二年に創設された。末武漁業組合は遅れて一九二六年(大正十五)であった(「同」)。
 西豊井村字浦町の魚市場と東豊井村字新町の魚市場は、ともに一八〇七年(文化四)の創設であった。東豊井村字松ヶ崎の魚市場は一八七九年(明治十二)に創設され、のち新町の魚市場へ合併されたものと思われる。末武下村字金屋の魚市場は七七年に創設され、のち西市へ移設された。末武川に面した荒神の魚市場は九四年からであった。表24の魚市場別売捌高をみると新町と浦町の魚市場の売捌高が高く、末武下村と東西豊井村に魚市場の中心があった。
表24 魚市場別漁獲物売捌高(1880年)
新 町4,926.113
浦 町5,492.092
松ケ崎1,665.439
金 屋185.750
「魚市場慣行調」(明治19年、山口県文書館蔵)

 魚市場は個人所有であった。市場主と漁民間に契約はないが、盆と暮に市場主は仕入金として漁民に約一円五〇銭を前貸し、売捌金のうちから一〇分の一を返済分として差し引くことになっていた。市場維持費は売捌高の一〇〇分の七が当てられた(「魚市場慣行調」山口県文書館蔵)。
 一九〇四年(明治三十七)、下松町は室町に魚市場を開設し、浦町魚市場や新町魚市場の所有者等五人の請負制とした。その請負金は年三〇〇円であった。その後一一年四月東豊井新町に魚市場を開設し、下松水産株式会社(社長岩山喜一郎)の請負営業とした。請負金四〇〇円、三カ年契約であった(「下松町会会議録」)。
 一九二〇年(大正九)、新町魚市場と下松町と下松町漁業組合の共同出願による魚市場とする議案が、下松町漁業組合から下松町議会へ提出された。この議案は、下松町漁業組合員の漁獲物販売収益は漁業組合へ、その他の漁獲物販売収益は下松町の収益とするという内容であった。この議案に対して下松町議会は「適当ノ時期ニアラズシテ危険ノ虞アルニ依リ、充分内容ヲ調査シタル上答申スル」(「下松町町会会議録」)として難色を示し、成立しなかった。