第一次世界大戦中、世界的な船舶不足が深刻化しつつあり、そのような国際情勢のなかで、一九一七年(大正六)春、久原房之助は神戸市の日本汽船株式会社内で鉄鋼造船地域の設立準備を進めていた。その過程で堀正一や矢島専平らと相談の結果、その地域を下松町に決定した(『笠戸工場史』)。決定理由は、①下松と久原家は縁がないわけではない。②徳山にはすでに海軍練炭製造所があり、その他の会社の進出計画も伝わっていながら、下松にはその動きがまったくない。③宮ノ洲以北に良港があり、山陽鉄道がある。④下松に山陽電気株式会社と下松銀行がある。⑤塩田地域で工場敷地と労働力が得やすい--以上の点が考えられる。①については久原は藤田組の藤田伝三郎の甥にあたり、藤田家の祖先が下松に居住していたといわれる。②はこの翌年に日本曹達株式会社(のちの徳山曹達)や大阪鉄板株式会社(のちの日新製鋼株式会社徳山工場)が徳山に設立された。またすでに太華村に神戸鈴木組の亜鉛製練所(のちの日本金属株式会社徳山工場)が設立されており、当時下松から外に働きに行く労働者が多い状況であった。③は前方に笠戸島、南に宮の洲、北に大島半島が取り囲んで良湾を形成しており水深もある。④は一九一七年(大正六)久原は合資会社下松銀行の資本金を一万円増資し、別に六〇万円を出資して株式会社に組織変更させ、山陽電気株式会社の四万八〇〇〇株のうちの八五パーセントの三万四〇〇〇株を買収し、資本と電力を掌握していた。
計画内容は「防長新聞」(大正六年六月二六日付)によるとつぎのとおりである。①工業用地は下松町から太華村粟屋川に至る鉄道以南約九〇万坪とする。②前記の地域のほか、末武北村と久保村にわたった地域を職工とその家族その他一八万人の居住地域とする。③四か町村にわたる新市街に上水・下水・電車・劇場・公園等を設ける。④第一期事業は恋ケ浜から九軒屋の鉄道以南の地とし、一年後から造船事業を開始して職工三〇〇〇人の規模とする。⑤三~四年以内に残りの土地と対岸に鉄工場を建設して事業を開始し、職工一万七〇〇〇人の規模とする。⑥土地の買収は強制的にしない。この壮大な計画は、一九一七年(大正六)六月十一日久原房之助と日本汽船専務取締役中山説太郎、下松から堀正一の三氏が会見して決定したといい、この時点で最終的な計画を示し、地元の協力を依頼したものであろう。六月十四日関係町村長等に発表され、各町村議会の同意を得て発表されたものであった。
久原工場建設計画発表の直前、大阪市の藤村機械株式会社が西豊井の喜重屋と重本屋開作に機械製造工場と徒弟学校の設立を下松町に出願した。一七年六月八日の下松町議会は全員一致で「当町繁栄ニ資スルコト多大」(「下松町会議事録」)であるから、「工場建設に関シ近隣地ノ折合乃至官公私共工事進行」(同)を奨励援助することを決議し、また同工場建設にともなって入川の浚渫および重本屋開作堤塘埋立てを出願すれば許可することを議決した。これは下松港の一等地であり、のち久原房之助に買収されたものと思われ、急拠、久原工場建設計画が発表された原因とも考えられる。