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買収反対の動き

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 当初の買収は順調にすすみ、太華村の小作人の反対があった程度であった。なかば強引に買収が進められると強い反対が出た。特に増補地は、鉄道以北の下松町全域にわたるため、下松町民は町外に移住しなければならず、そのうえ増補地は社員住宅等であり、いわば下松町の土地と住民の入替えで、明渡し同然の状況であった。岩本五郎元町長ら約三〇人は久原房之助へ陳情書を出すとともに町内へ向けても異議を唱え、買収に反対の意を表明した。「連合期成会庶務録」には、このグループを三十人組と呼んでいる。下松町民にとっては正論であり、岩本五郎は林知事交渉を展開し、地元協議会内に対立と激論があったと思われる。この結果は「設計ニ差支エナキ限り弐反以内ノ宅地続キ地所ヲ残ス事」(「久原工場設立一町四カ村連合期成会庶務録」)で決着し、割切れないものが残った。
 家と土地の喪失に強い反対を唱え、久原房之助に陳情書を提出した末武北村の村民がいた。一九一七年(大正六)八月九日付の陳情書(「久原工場設置一件」)によると、「土地建物は日露戦争の下賜金で山間を切開き設立したものであるから、わが家の記念として除外してほしい。だが工場建設に敬意を表するため山林の一部を献上する。私の土地が工場建設の妨害となり、国家発展の阻害となるならやむをえないが、山林の中の果樹園であり買収されると生計に困る」として、次の四カ条の条件を出した。①記念のため保存すべき土地の交換、②地上にある果樹類およびその他の損害補償、③移転の損害補償、④全部の土地が交換できない場合は宅地のみ、ただしおよそ希望にあう場所、であった。この陳情にはなぜ山林まで含まれるのかとの不満もあり、副業奨励によって果樹園を切り開き、ようやく生計が立つようになった時点での土地家屋の喪失に対して素直な気持ちからの陳情であった。
 一九一七年(大正六)の八月から九月の下松町は世情不安であった。約一三〇〇人の土地家屋の売渡者のなかには買収を拒否する者、売値のつりあげを望む者、陳情する者などいろいろであった。「防長新聞」(大正六年八月十九日付)は下松町の状況を「町民大会開催は事実無根」と報じたが、似たような状況はあったと思われる。九月になると土地評価のための家屋樹木等の調査が始まり、反対者のあるなかで買収作業は進められた。