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評価額の決定と久原用地部の設立

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 一九一七年(大正六)九月末にやっと土地評価額が発表された。表4の額は山口で決定し、連合委員会で承認されて発表したものである。その細部は地元の評価委員に委ねられ、慰謝料などの割増金を含み、戸別に二〇〇円が加算された。
表4 買収地の反当たり評価額
特等1等2等3等4等5等6等
田 地1,2001,1251,080990900810220
畑 地390325260195130
宅 地6,5003,9003,6002,6002,000
塩田甲931829689
 〃 乙875769612
 〃 丙851730540468
1. 「久原工場設立一町四ケ村聯合会庶務録」による
2. 慰安料その他割増金を含む
3. 価格の外に1戸毎200円を加算する

 評価額の発表とともに買収の一部取消地が発表された。この取り消しで荒神山および能行・寺迫の畑地と東豊井の山林が除外された。これは下松町民の移転先がなくなるためであり、下松町の東北三〇町歩が買収から除外された。
 土地評価額の決定で、各人へ価格決定書が配布され登記替えがなされることになった。十月十五日すでに買収区域の標識打ちが始まり、第一期工事区域内の住民の移転料が十一月二十六日都濃郡役所で開かれた第二回久原工場買収地上物件評価委員会で決まった。移転は久原側で必要と定めた二カ月以前に通告するものとし、移転料設定の基準は現在の建物と同種同質の新材料をもって現在の建物と同等のものが新築される費用とされた。久原は用地部を設立し、買収地の管理機関とした。
 宮ノ洲漁民は新崎や小島開作など下松町内への移転を希望したが、海岸地域は久原氏の買収地域となり、選定が困難を来たしたため最後となった(「防長新聞」大正六年十月二十二日付)。
表5 移転料
 
 藁葺平屋29.055
  〃 付キ平屋31.155
 瓦葺平屋42.715
 二階屋65.100
「防長新聞」大正6年11月27日付による

 地主は買収金を得るが、小作人は何ら恩恵を受けることはない。ただ工場建設までは久原用地部の小作人として耕作を続けることができたため大きい混乱がなかったことは幸せであったが、将来の希望はなかった。そこで末武南村の小作人は笠戸島の村有林野の払下げを願い出て開墾して農地化し、大工場地域を市場とする野菜栽培計画を出願した者がいたが、その結果は不明である(「末武南村庶務一件」)。当時の下松は転入者が多く「久原相場」(「防長新聞」大正七年一月十五日付)といわれ、また白雀が下松駅から町中を飛んだのは、下松地方の大発展の吉兆かといわれた時代であったから、商業的農業を計画したのであろう。