買収の最終段階に至った十一月三十日の下松町議会では、宮ノ洲の山林と隔離病舎敷地九畝二六歩、および恋ケ浜の保安林一町五反四畝一〇歩と畑地一反四畝一歩、計一町七反七畝二七歩の寄附を決定した。恋ケ浜の保安林は公園地として企画されていたものであるから「相当の計画を望む」と注記付きであり、また墓地と一部分に宮ノ洲住民の居住地が含まれていた。また同日の下松町議会では東西豊井村の各組共有地四町歩余の売り渡しを決議した(「下松町会会議録」)。だがその二十日後の十二月二十日の下松町議会に出された東豊井西ノ浜の山林四反七畝一六歩の寄附議案は「提出者ニ於テ撤回セリ」とあり、久原工場が工場の名を「笠戸工場」と発表したためであった。
末武南村大字平田村の土地については、沖合の埋立地一町七反余が七月十四日の村会で売り渡し予約が決った。十月二十二日に末武下村土手の西市組所有の雑種地を含めて無償譲渡され、同時に平田村沖の池沼地も六四六一円で売渡された。末武南村のこれらの地域は別に問題はなかったようである。平田村西潮上の塩竈神社敷地は付属田畑とともに売却され、鉄道以北の同神社所有の田地の字須磨に移築された。塩竈神社は塩田鎮守の神で神社所有地の小作料で維持されていたが、その結果、経済的な基盤を失うことになった(「塩竈神社諸願届並許可書示達綴」村上家文書)。