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計画変更

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 久原工場の建設について『日立製作所笠戸工場史』は「当初の計画は大規模なものであったが、さしあたり宮ノ洲付近に約三万坪(一〇町)で造船・造機・製鋼の事業を開始し、のち拡大していく方針で宮ノ洲北方の土で付近の塩田を埋立て、笠戸島に面して船渠二基・船台一〇基・造船工場・材料置場等を設け、宮ノ洲山東方外海に面して機械工場・製鋼工場を設置し、洲鼻の両岸を繫船壁にあて艤装工事をしようとする計画であった。米国からの輸入機械保管のため神戸に約一〇〇〇坪の仮倉庫を建て、松島鉄鋼所に資金を貸与して補助機械・艤装品類を作らせることにした」と記している。
 このような大規模な計画が進められている途中、第一次世界大戦の軍需品生産のため、米国は一九一七年(大正六)九月鉄鋼を全面輸出禁止とした。当時、日本では鉄鋼生産は軍部に握られ、国内調達は不可能であり、久原工場のような大規模な民間造船工場は大打撃をうけ、計画を変更せざるをえなくなった。
 同年十月の久原工場は土地買収から登記作業へ移り第一期工事が進行中であったが、計画を変更して小規模の造船工場建設とし、社名を日本汽船株式会社笠戸造船所と改めて、川崎車両株式会社車両課長古山石之助が所長に就任した。
 笠戸造船所は当分の間、造船・造機の設備は五〇〇〇トン級の船舶建造にとどめ、建造中のものだけに絞って拡張しない方針とし、本船台二基、仮船台三基、船渠一基を設け、一万八〇〇〇トン四艘、三五〇〇トン三艘、五〇〇〇トン二艘の建造計画をたてた。また職工職員合宿所を建設することにした。十一月はじめに埋立て工事はほぼ完了し、十二月二十二日には大阪事務所と下松事務所を工場内に移して事務を開始し、職員職工の一部が就労した。本格的事業は、翌年一月から開始した(『笠戸工場史』)。

図1 久原房之助による浚渫埋立出願地(1919年2月)
下松町会会議録