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下松の町名不冠称問題

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 一九一七年十月久原工場は名称を「日本汽船株式会社笠戸造船所」と改めた。日本汽船株式会社は久原鉱業株式会社が株式の大部分を持つ会社で、造船部門が別会社となった会社である。下松町議会に正式名称が伝わったのは、約二カ月後の十二月であった。
 十二月二十一日の下松町議会は「工場名称ニ関スル建議書」を決議した。この建議は「其工場ノ名称、本町ニ何等関係ナキ笠戸ノ地名ヲ冠スルハ当町ノ面目ヲ没却シ、将来ノ発展ヲ妨害スルモノ」(「下松町会会議録」)であるから、「本町ノ名誉ヲ失墜セザル様」(同前書)に要求するものであった。下松町議会は久原工場設置が発表されると他町村より率先して町有財産の寄附を決定し、問題の多かった土地買収が一段落したところへ計画変更が発表され、そのうえ末武南村の「笠戸」の名の付いた造船所名が発表されたのであったから、下松町民や下松町議会が不満を強い態度で表明したのは当然である。
 十一月十九日の「防長新聞」に掲載された貴族院議員堀正一の談話の中に「下松の下ると言う字は甚だ面白からず、殊に京浜地方にてはクダマツと言わずしてシモマツと読む」ので、久原は「第一期工場の命名に苦しみ」笠戸湾に面しているので「笠戸造船所」とすればよいが、「笠戸島江の浦に計画中の島谷徳三郎の造船所と混同」する。また「全部の工業都市計画が完成するまでは久原の名称は用いない方針である」とある。この談話のなかで堀正一は工場名称についての確答を避け、下松の町名を改称してはどうかとしているから、堀には久原から工場名について知らされていたのかもしれない。
 「下松」の町名不冠称が問題となった前日(十二月二十日)の町議会に、下松町長劔持勝之が諮問第一号として提出したのは、日本汽船株式会社専務中山説太郎よりの仮桟橋三カ所を宮ノ洲東海岸に設置するための公有水面使用願であった。だが議事録に「提出者ニ於テ撤回セリ」との付箋が付けられており、町議会および町内の動揺から議案は撤回されたことが分かる。同議会の議案第二号は東豊井西ノ浜の町有山林四反余を久原へ寄附する議案であったがこれも同様に撤回された。翌一九一八年(大正七)一月二十三日仮桟橋設置のための公有水面使用願が再度下松町議会に提出された。その意見書には「本町ハ曩(さき)ニ大阪市久原房之助下松造船所船渠及鉄工製鋼所設置ヲ歓迎スルノ決議」をしたのであり、したがって出願は久原房之助がすべきであるのに「日本汽船株式会社ガ笠戸造船所ヲ設置スルニ対シ公有水面使用ヲ出願スルハ不穏当ト認ムル」のみならず「漁業上大ニ妨害トナル」として否決し、下松町議会の意地が感じられる(「下松町議会会議録」)。すなわち下松町は久原工場に土地を売却したのであって「笠戸」造船所に対してではなかった。

日本汽船株式会社よりの仮桟橋設置出願図
(大正7年「下松町会会議録」)