一九一八年(大正七)一月、日本汽船株式会社笠戸造船所は九分方工事を完了した。工場長古山石之助は職員九〇人、工員三〇〇人を集めた。工場の概要は敷地三万坪(一〇町)のなかに事務所、鋳造工場、機械仕上組立工場、アングルアーネス、木型工場、製缶工場、倉庫各一棟であった(『笠戸工場史』)。工場建物の総坪数は四〇〇〇坪余、工場敷地の外、鉄道以北の中豊井と寺迫に五三〇〇坪の整地を終え、職工合宿所や職長住宅、職工社宅、職工夫婦長屋などが建設中(「防長新聞」大正七年一月十三日付)であり、移住職工に対する対策は着々と進んだ。下松地域からどの程度笠戸造船所に採用されたかは不明であるが、同年一月初笠戸工場長古山石之助は各町村役場へ一二歳以上の職工見習斡旋依頼通知を出し、見習中は年齢に応じ月給一六円六〇銭を支給するとした。末武北村では八二人が出願したがその結果は不明である(「末武北村久原工場設置一件」)。
工場建設に引きつづき造船業開始によって工場請負業者や作業員職工等の流入移住が多く、下松町内は料理屋や事務所等の新設が多く、「久原相場」との言葉が「防長新聞」に記されるほど、当時の下松町は活況を呈していた。