一九一七年(大正六)十二月から翌年三月にかけて地元住民に何らの説明がなく諸々の重大な事業変更が実施され、そのうえ役場吏員が実質的な事務を担当したことから、地元住民の不信と不満は爆発し、ついに劔持町長の辞任にまで発展した。
その不信不満はつぎのように要約できる。①久原鉄工造船製鋼船渠会社用地として祖先伝来の土地の買収に応じたのであり、日本汽船株式会社へ土地を売ったのではない。②下松の名をつけない上、「笠戸造船所」と正式命名しながら地元へ何も報告がない。③広大な土地を買収しながら笠戸造船所以外計画発表も建設もない。④造船業中止により今後の下松はどうなるのか不安である。⑤造船事業中止などを町長をはじめ町の有力者は知っていたのではないか、以上の四点であった。地元住民は何等利益を受けず、外来者の利益のために買収に応じたことになることが、不信と不満の原因であった。工場誘致と買収にあたって下松町長をはじめ矢島、堀、上原等の功績は大きく、それだけに批判も大きい。下松町長剱持勝之は辞表を提出したが、結局、町会議員等の留任勧告を受け入れて五月の任期終了時期まで勤めることになった(同、大正七年三月二十一日付)。下松町臨時委員会は造船事業中止による善後策の協議を続けた。その席上、矢島専平は久原房之助の手紙を示しながら「古山工場長が上阪中であるから吉報があろう」と協議会委員や住民の慰撫に努めた。当時笠戸造船所では熔炉や煙筒の組立て工事中であり(同、三月二十一日付)。一八年四月には笠戸造船所は事務室南に鍛造工場を建設し、スチームハンマー五台を据え付け、職工一四〇余名とし、職員合宿所等を竣工させて、下松での事業を全く中止したのではないことを下松住民に確認させ、安堵させた(同、四月十九日付)。
一八年十月、下松駅と工場との鉄道引込線の敷地買収と築港に乗出し、翌年二月小島開作と新崎沖を浚渫(しゅんせつ)して船舶の出入を便利にした(「下松町会会議録」)。