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その後の下松と久原

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 買収地域は、久原用地部が管理したが、従来通りの耕作使用権が認められた。工業都市建設計画発表以来、人口移動が激しかったが、一九二〇年(大正九)ごろから落ちつき、就学児童数の移動が平均化した(「下松町事務報告」)。
 下松町内は久原房之助の契約不履行を理由に土地を買い戻そうとする者や民事訴訟を起こす者などあったが、久原は買い戻しを拒否するかわりに、関係町村に寄附金を出して住民の慰撫に努めた(「長官事務引継書」山口県文書館蔵)。
 下松町では一九二一年協議会を開き、久原房之助に対しての要求を整理した(「防長新聞」大正十年九月十五日付)。その要点は①久原は買収地を土地会社にするとの説に対する真相の説明、②下松町会は久原の事業歓迎の趣旨をもって町有財産を寄附したことに対し、相当の代償要求、③一九一八年度の所得税を要求、の三点であるが、久原からの回答はなかったようである。
 一九二一年十一月下松町は豊井小学校建設地がなく、そのため久原房之助に対し、西豊井大みどろの田地九筆計一町七反七畝二七歩の寄附を要求した。これは一七年十一月三十日の町議会で久原へ寄附を議決した宮ノ洲の山林と隔離病舎敷地、および恋ケ浜の畑と保安林と同じ面積の土地をその代償として要求したものであり、要求に応じられない場合は前記寄附地の返還を要求する内容であった(「下松町庶務一件」)。その後下松町は一九二七年(昭和二)久原房之助から三八八三円余の公益事業指定寄附を受け、公益事業積立金規程を制定して町債の起債や非常災害時の積立基金とした(「下松町庶務一件」)。久原房之助は末武北村に対し二六年四月村費へ六円三二銭を寄附したが、末武北村村会は「寄附金額僅少ノ故ヲ以テ全会一致ヲ以テ否決確定」(「末武北村庶務一件」)とし、寄附金の受け取りを拒否した。
 末武南村は久原房之助が土地を買収しながら事業に着手しないため、一九一九年(大正八)三月堀正一を上阪させたが、なんら回答を得ることができなかったから、地主が村役場に集まり末武南村発展期成会を組織した。会長に郡会議員古谷小作を選出し、「久原家は当初発表と同一の工場を速かに末武南村へ建設」(「防長新聞」大正八年三月十九日付)すべきであり、できないならば「久原家経営の私立実業学校」(同)を建設し、そのうえ「同村沖海岸部一帯に一大築港工事」(同)を始めるべきである、と決議し要求した。久原は同年十一月末武南村に三〇万円を工業学校創設費として寄附し、さらに同校の生徒表彰資金を寄附した(『末武南村郷土史』)。
 久原工場が地元町村民の期待通りに進捗しないため、久原工場設置のための臨時委員は昭和に入っても解散できなかった。一町四カ村連合期成会は一九一八年中に解散したと思われる。