日立製作所笠戸工場で大正末年に大きい労働争議が起こった。この争議の発端は、一九二六年(大正十五)九月ごろ約九〇人の地元職工が賃金増の嘆願書を会社へ提出したことから起こった。これは単なる賃金増の要求書であり、無産政党や中央の労働組織とは関係なかったが、会社側は要求を拒否し、背後関係の調査を実施した。翌二七年(昭和二)四月九州民憲党の浅原健三らの指導を受けて亀井唯義や三原四郎らは労友会を結成して交渉を始めた。七月労友会は見習満期工の賃金改正、解雇・退職手当金支給、請負制度撤廃等、一二項目にわたる要求を提出した。十二月三日になり会社側は労友会会長など役員九人を解雇した。労友会は下松町の大黒座で職工大会を開き、被解雇者らが会社へ会見交渉を申入れたが拒否され、製缶部職工は五日午後から怠業に入った。翌六日、会社側は「七日より当分休業」と宣告し、更に労友会幹部一四人を解雇した。労友会は大黒座で家族協議会を開き労友会内部の結束を固め、持久戦に対応できる態勢を整え、三原四郎労友会会長を争議団長に選んで団結して対抗した。十日争議団は①解雇者一六人の復職、②休職中の賃金支払い、③争議中の費用は会社負担、④今後絶対に解雇しない、の四項目の要求を会社側に提出した。会社側は「十二月十九日より操業開始」を通達し、全職工八〇〇人のうち約三分の一が就労したため、組合内に動揺があったが争議は継続した。この間、下松分署長や町当局者をはじめ区長、在郷軍人会、青年団などによる説得工作が行われた(同)。
徳山と下松地域の新聞記者団は下松駅前の浜仙に事務所を設け争議に対応した。一九二八年(昭和三)一月七日、記者団は共同して調停に乗り出した。この調停に対し会社側は「解雇は県特高課の意向に工場が同意したもの」とし「解雇者の子供の通学上から、解雇の三月までの見合わせの依頼」も拒否し、また「県・警察・町との協議調停は受けるが記者団の調停は受けない」とした(「防長新聞」昭和三年一月九日付)。このような会社側の強い態度から「防長新聞」は「当分解決の見込みなし」(一月十日付)と報じ、労友会は本社交渉を開始した。