道路の改修整備は近代国家発展と殖産興業のためにも急務であった。一八七六年(明治九)国道・県道を一~三等に分け、山陽道は一等とした。八三年の通常県会は県内主要路線の改修の方針を定めた。山陽道のうち花岡以東は欽明路の難所があるために除き、同年九月から翌八四年にかけて花岡・赤間関間が改修された(『山口県会史』上巻)。八五年全国の国道四四路線に番号を付け区分した。東京・長崎間は第四号国道となり幅七間以下にならないよう改修され、一九一八年(大正七)の道路法で第四号国道は一級国道二号線となった。
山口県は第四号国道の遠石・岩国間と第二八号国道山口・徳佐間の改修を計画した。この両国道には欽明路峠と篠目峠があり、工費が総額二二万九六六九円余となるため五カ年継続工事とするとともに、三分の一を国庫補助、残り三分の二を地方費(県費)支弁と寄附金として一八九〇年(明治二十三)度から実施した。欽明路峠は「山陽、有名ナル峻坂ニシテ嘗テ演習旅行ノ際、砲兵ノ誤リテ顚覆シ馬ヲ傷ケシコト」(『山口県会史』上巻)があったといわれるほどの道であった。久保村字峠市と久米村下須川間一里三〇丁は九七年改修に着手した。
道路工事費は改修のみでなく修復維持費をも含み、沿道諸村のうちにはその負担に耐えない町村があった。九六年度から国県道改修費は関係町村が四分の一以上を負担することになったが、町村では里道の改修も加わって町村財政を圧迫した。一九〇二年(明治三十五)八月の豪雨による末武北村の第四号国道修復費は表6のように総額約五〇〇〇円におよび、二カ年継続工事であった(「末武北村会務ニ関スル上達下達各所往復類纂」)。
修繕箇所 | 1902年支出 | 1903年支出 | 計 |
| 円 | 円 | 円 |
道路修繕13カ所 | 2,157.015 | 2,100,000 | 4,257.015 |
暗渠 〃 2カ所 | | | |
和田橋架換 | 521.000 | 197.331 | 718.331 |
計 | 2,678.015 | 2,297.331 | 4,975.346 |
「末武北村会務ニ関スル上達下達各所往復類纂」による |