里道の改修は町村費から支出されるため町村財政を圧迫した。米川村のうち瀬戸村に入る里道の改修費は、一九〇〇年(明治三十三)瀬戸村の共有物の軍事公債証書二五〇円を抵当に二五〇円を借用して捻出したものであった。温見村の里道改修も共有金を繰りかえて捻出された(「米川村部落有財産処分決議書」)。後山の里道は一九二四年(大正十三)八月と九月の二度の大洪水で破損し、米川村村費の補助がなければ補修できなかった。下谷から須々万村に至る里道は米川・鹿野を結ぶ主要道である。一九一三年(大正二)以後のこの里道の改修費五一八三円余のうち、同年分三五〇〇円は米川村民への戸数割賦課が困難であるため、一時、村基本財産金四〇〇円と小学枚基本財産金一〇〇円を借用し、これらを五カ年間の償還とし、残りの三〇〇〇円を村債としている。その他の費用は戸数割賦課を増徴するとともに、山口県慈恵資金から年六分で借用し、須々万村二〇〇円、都濃郡三〇円の寄附金で支弁するという非常に厳しいものであった(「米川村庶務会務」)。