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町道と車馬台数

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 下松町内の里道改修は他の町村に比べて進んでいた。大正期に入り道路の整備はさらに進んだ。停車場から室町近辺に至る道路は三業地に達し、汽船乗降場や専売局等に通じる主要な道であり、東西に走る県道見込線と交差する。下松町の発展とともに車馬の通行が増加して改修が必要であった。一九一五年(大正四)に室町下通りに側溝がつき排水がよくなり、一七年には図2のように幅三間と四間となり、浦町側の入川が埋立てられた(「下松町会議事録」)。

図2 下松町内道路拡張工事箇所 (1917年)
(下松町会議事録による)

 一九二〇年四月の道路法実施により下松町内の町道が調査のうえ認定され、翌年の町道修繕は一三カ所におよび、本町埋立地内の東西両大正町間に幅二間の新道が建設された。この埋立地一三〇〇坪余は一九二三~四年に宅地として売却された。二三年度に悪水路が浚渫され、道路改修箇所と費用は下松駅・小島開作間(四五〇間)、西浜(八六間)、大小路・切戸川間(三〇二間余)、計八三八間余、総額一五八九円余を要した。翌年切戸川に新橋が架設(工事費一〇六〇円)されるなど整備されていった。原を経由する中豊井恋ケ浜線は大半が久原用地部の所有地であり、その改修には問題が多かった(「下松町事務報告」)。
 明治末期から大正期にかけて車の増加が著しく、それだけに道路の改修を急がねばならなかった。特に大正期に入り自転車の増加が目立った。表7に示したように米川村を例にとってもそれぞれ倍増している。一九一二年(大正元)の下松町の諸車台数は荷馬車二一、荷車二七五、自転車一六二、人力車一三、その他猫車等六(「下松町庶務一件」)であるが、二一年には荷積車四三一、自転車四〇七(「下松町事務報告」)と増加が著しい。
表7 米川村諸車台数
1916年1924年
荷馬車614
荷車1724
自転車3595
人力車00
その他023
58156
米川村庶務統計による

 車馬通行の増加で交通事故が発生した。下松町内で割石運送中の馬車に三歳の幼女が轢かれて死亡し(「防長新聞」大正八年十二月二十日付)、下松駅では徳山錬炭所の作業員がプラットホームの間に落ちて死亡(同、大正九年八月十二日付)するなどの事故があった。