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岩徳鉄道の開通

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 一九一二年(大正元)ごろから陰陽連絡線として計画された岩日線の支線として、山間の沿道町村間で岩徳線敷設の計画がもちあがり、予測調査や企画が協議された。その後岩徳線・岩日線ともに第一次世界大戦のために中止された。
 一九二〇年の帝国議会で岩国徳山間鉄道が国有線に確定されたことから、同年九月、沿道町村長や県会議員などが中心になって浅江村虹ケ浜に集り、「岩徳鉄道期成同盟会」を結成した。期成同盟会の事業は、①鉄道敷設の調査と促進、官営・私営を問わず速成を第一とすること。②会社創立のときは発起人の募集等、一切の業務を担当する。③岩徳線開通で海岸線が処分されるときは必要な措置をとる、の三点であった(「岩徳鉄道期成同盟会規約」)。運動費として期成同盟会会員一口二五円として一万円を集めることにしたが、とりあえず半口一二円五〇銭を早急に集めることにした。会員募集予定口数は表9に示したように一一カ村四八四口であった(「末武北村岩徳鉄道敷設一件」)。
表9 岩徳鉄道期成同盟会会員募集予定口数 (1920年)
玖珂郡熊毛郡都濃郡
岩国町85勝間村31久保村12
師木野村13高水村26米川村3
玖珂村38周防村11末武北村30
高森村52三丘村24末武南村11
祖生村9八代村7中須村4
川越村8須々万村4
南河内村8久米村8
米川村23須金村5
御庄村5太華村6
富田町7
徳山町54
小計241小計99小計144
総計484
「岩徳鉄道敷設一件」による

 期成同盟会の虹ケ浜大会後すぐに「岩国徳山間山間直通線に関する請願」と題した建白書を作り、この建白書を持って都濃・熊毛・玖珂三郡代表が上京した。東京の静養軒で在京山口県人等と協議の結果、「山陽線改良工事計画変更に関する意見書」を作り、建白書にこの意見書をそえて鉄道大臣元田肇へ提出した。意見書の要点は、①海岸線より距離が短縮でき、時間・費用・石炭の消費が節約できる。②徳山岩国間年輸送量は人員一五〇万人、貨物一五〇〇万トンを超えようとしており、急行列車の場合一人三〇分の節約とすると年五〇万時間、混合列車は一時間の節約として年一五〇万時間節約できる。③岩徳線は国の幹線としての機能を高めることになる、の三点に要約できる(永田新之丞『岩徳鉄道の思い出話』)。
 一九二二年(大正十一)岩徳線が鉄道敷設法のうちに編入され、同年九月、再度二七九五名連署の急設請願書を鉄道局に提出した。翌年二月徳山町で岩徳線期成同盟会総会を開き、全国鉄道促成連合会に加入した(『花岡郷土誌』)。二三年三月、全国の建設線八三線のうち二五年度起工の新線一五線のうちに岩徳線が入り、同年起工、三四年度完成、工費六九七万円余と決定された。この報は沿道各町村に知らされると、各種の祝賀行事が行われた。徳山から岩国まで自動車隊が往復し「宿望貫徹」のビラを撒き歓迎した(永田前掲書)。工事の着工は関東大震災のため延期となったが、一九二七年(昭和二)九月から始まり、三四年十二月に全通した(山口県立博物館『鉄道いまむかし』)。花岡駅の設置については二六年花岡駅期成同盟会が結成され、「駅設置に関する請願書」を提出し、運動が展開された。その結果、周防花岡駅は櫛ケ浜・花岡間の開通した三二年五月二十九日に開業した(『花岡郷土誌』)。

「岩徳線」予算の国会通過を祝すビラ