大正期までは笠戸島との交通の便が悪く、島民の苦労は多かった。笠戸島のうち人口の多いのは本浦で、一九一九年(大正八)の戸数八〇戸、人口四〇〇人であった(「防長新聞」大正八年二月十二日付)。一八年笠戸船渠株式会社が江の浦に設立され、江の浦地域が発展することになったが、会社では私有の船を利用し、一般島民は漁船等の利用が多かった。
笠戸巡航株式会社は笠戸島と下松町および末武南村を結ぶ交通機関として一九一九年三月に設立された。創立委員長末石梅吉、資本金七〇〇〇円であった。一九二七年(昭和二)笠戸巡航株式会社は笠戸島の字尾郷(一三坪五合)、字江の浦(一八坪)、字大松ケ浦(三坪)に埠頭を設置して船付場とした。さらにその翌年には埠頭を本浦(一七坪七合)に設け、尾郷の埠頭を六〇坪余に拡張し、大松ケ浦と江の浦に桟橋を架設し埠頭も拡大した。また字戎に一五坪の埠頭が笠戸島自彊組合の手で作られ、字深淵に一五坪の防波堤が完成し、船の乗降が便利となった(「末武南村村会会議録」)。
当時の船舶事情について下松町の船数(表10)を見ると、西洋型の発動機船は皆無で、明治末年から大正初年にかけて西洋型の帆船が増加し日本型の帆船が減少の傾向にあった。この表には小船ははいっていない。一九一五年(大正四)の下松町の小船数は一九一艘、すべて「動力ヲ有セザル船」であった(「下松町庶務一件」)。
| 1907年 | 1912年 | 1914年 |
西洋型蒸気船 | 0 | 0 | 0 |
〃 帆船 | 7 | 10 | 19 |
日本型船(50石積以上) | 12 | 22 | 14 |
計 | 19 | 32 | 33 |