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久原相場の下松

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 一九一八年(大正七)一月の下松町は日本汽船株式会社が操業を始めようとしていた時期であり、そのうえ第一次世界大戦の影響で大インフレの時期であった。「防長新聞」(大正七年一月二十三日付)は下松駅の混雑ぶりについて、「二、三年前ならば妙見社の祭日でなければ滅多に見られぬ混雑を毎日やっている」ほどで、「駅通りから室町、本町、中市と一巡すると大概一軒毎に新奇な看板を掲げていないうちはなく、何々出張所をはじめ、何々卸売りに到るまでまるで看板の共進会」のような状況であった。「往来で出会った人達も大概洋服姿でなければ印袢纒で、『オイ兄弟』といいそうな顔付をしている者ばかり」と報じ、さらに「最近は料理屋が九〇余戸に激増し、川口楼と磯仲楼は百畳敷の大宴会広間を建設した」と報じた。下松町の料理屋数は多く、一九一六年(大正五)料理屋数三五五軒のうち料理屋税二円以上納入五七軒、税一円以上の中間的料理屋七六軒、一円以下の小さい料理屋二二二軒(「下松町庶務一件」)があった。一八年には「料理屋や飲食店など雨後の筍の如く簇生」(同、大正七年三月四日付)する状況で、線香代一本四八銭から六〇銭に値上げされ、一時間五本か六本かで争われたといわれた。二一年から図3の西豊井字開作の切戸川中で船を浮べた料理屋が出現した(「下松町庶務一件」)。

図3 料理屋船営業のための公有水面使用出願地
(T10「下松町庶務一件」)

 市街地化の進行は汚物処理問題を発生させた。下松町は二一年市街地内に二つの箱を置き、一つを瓦や陶器用、他の一つを純然たる汚物塵芥用とし、ガラス類は別に容器を定め、町の常設掃除人が回収することとしたのは都市問題の発生を物語るのであろう(「下松町汚物塵芥掃除規程」)。
 町の急激な成長はいろいろな事件をひきおこした。下松町の青柳館で防府の二二歳の男性が芸妓と心中未遂事件(「防長新聞」大正六年十二月十八日付)を起し、下松地域の郵便局員が三〇〇〇円を窃盗して豪遊(同、大正八年八月三一日付)したり、また久原工場建設請負作業員が二〇余名の引抜き問題から傷害事件(同、大正七年一月二十三日付)に発展した。そのうえ小学生万引き事件(同、大正八年三月一日付)など、事件は小学生にまで及んだ。