一九〇四年(明治三十四)に創設された下松商業組合(組合長岩山喜一)は、一九一六年(大正五)下松商工組合(組合長角田亀吉)と改称され、更に一九三〇年(昭和五)下松商工会(組合長岩本亀三)となった。末武南村では一九二五年(大正十四)末武実業協会が創設され、一九二八年(昭和三)末武商工会と改称された(『大下松大観』)。
花岡商工会は二八年に創設され、その目的は、①多量販売ト大量生産ヲ図リ、薄利多売主義ニ全力ヲ傾倒スルコト。②産業界ノ徳義ノ向上ト慣習ノ改善ヲ期シ、商取引ノ円滑ヲ図ルコト。③岩徳線花岡駅ノ開設ヲ機トシ、協同一致、社会ノ第一線ニ立チ、今一層本村ノ福利増進ニ勤ムルコト。④本村自治機関ト非公式指揮ヲ承ケテ本村繁栄発展ニ勤ムルコト。⑤独リ商工会ノ発達ヲ期スルニ止ラズ、本村各方面ノ協賛事業ニ奉仕スルコト、以上五点であった(「末武北村庶務一件」)。二九年花岡商工会の予算は三一〇円、会費収入六〇円、残余は末武北村の補助を受けて運営された。
個別の商業組合については宿屋飲食店が早かった。下松町の三業地域は字裏町一帯であり、塩業の隆盛とともに栄えた。一八八八年(明治二十一)創設の三業舎は一九一〇年(明治四十三)組合組織として下松検番(取締役武居利吉)となり、のち下松置屋組合と改称された。また下松宿屋営業組合が下松町と末武南村の同業者で組織された。一八九二年(明治二五)には下松貸座敷組合、一九〇七年(明治四十)に下松飲食店西洋料理営業組合が設立された(『大下松大観』)。検梅検査所の設置は県下では早く、一八八九年上関と下松に設置され、一九〇一年下松検梅所は下松娼妓健康診断所に改組された(『山口県会史』上巻)。
大正に入って、下松料理屋組合(組合長川口直一)が一九二五年(大正十四)に、そのほか二二年に下松薬業組合、二三年に下松理髪組合(組合長原田作一)が設立された。笠戸船渠株式会社の設立された笠戸島江の浦は会社設立とともに商店が増加し、二六年江の浦料理屋組合(組合長藤井亀槌)が設立された(『大下松大観』)。