一八九三年(明治二十六)銀行条例が制定されて銀行業務を兼務している会社は銀行と称することになり、防長精米合資会社は精米事業と銀行事業を分離した。九八年防長精米合資会社は合資会社下松銀行として資本金三万五千円(全額払込済)で設立された(同)。設立後の下松銀行は豊井の東町支店、島田出張所、花岡支店、呼坂出張所、虹カ浜出張所と各支店出張所を開設し、順調に発展した。一九〇六年東町支店に本店を移築した。
一九一四年(大正三)十月十三日・十四日、徳山に本店のある周陽銀行が預金二万円を取付け、その後の休業の影響をうけて、同年十月十六日から十九日にかけて預金三万五〇〇〇円余の取付けを引き起こした(『山口銀行史』)。下松銀行もその影響を受けた。久原房之助は、下松銀行に六〇万円を出資して資本金一〇〇万円(全額払込済)とし、久原の下松地域経営の一環とした。これによって下松銀行は不良債権の整理などを行い、また久原の土地買収などから下松銀行の預金額は急増した。
一八年二月久原系の株が七〇パーセントを占める下松銀行は、組織変更して株式会社下松銀行となり、監査役に中山説太郎が就任した。各出張所は支店に昇格し、徳山町に二一年支店を開き、都濃・熊毛郡にわたって八支店とし、総預金額四六三万円余、一七年の六倍に達した。同年の恐慌時には久原との関係から預金引出し者が増え、一時動揺した(「長官事務引継書」山口県文書館蔵)。