一八九四年(明治二十七)八月三日山口県知事は県下に対して宣戦の詔勅を電報で報知した。その三日後の六日下松港をもつ豊井村は臨時村会を開き、港の監視態勢を強化するとともに急報態勢を整えた。すなわち清国軍艦を急報した者に一円、その他の外国軍艦は三〇銭、日本軍艦も場合によっては村費のうちから報酬金を与えることにし、また応召家族の援護態勢をも決めた(「豊井村村会議事録」)。
出兵が始まると県内各地から献金や献納品が陸軍恤兵部へ届けられた。たとえば九四年九月米川村では早速草鞋三一六二足が村内二八五人からよせられ、米川村良心会は五〇〇〇足を献納し、また翌年にかけて村内のほとんどの人が一一足ずつ献納した(「米川村庶務一件」「草鞋寄贈人名簿」)。そのうえ軍事公債の応募は米川村で総額一二五〇円におよんだ。
日清戦争が終結すると末武北村は宮内大臣宛に奉祝電報を打ち、陸軍歩兵中佐長岡外史は戦利品を花岡八幡宮へ奉納した(村上家文書)。