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日露戦争

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 一九〇四年(明治三十七)日露戦争が始まり、下松地域からも多くの兵士が動員された。末武北村の動員数をみると一九〇四年七五人、五年五〇人であった(「末武北村事務報告」)。また、同年出征軍人遺家族の補助を決めたが、非常特別法が施行されて戦費の調達が優先されたため、村費による学校建設等の支出は停止された。米川村も里道改修と小学校改築を計画中であったが中止せざるをえず、耕地整理も中止となった(「米川村庶務一件」)。また第一回から五回までの国庫再建募集は配当額を目標に募集された。
 軍需用玄米の納入は表2のように各村へ割当てられ、山陽線下松・徳山・福川駅から積込まれて戦場へ送られた。馬匹徴発は岩国へ集められ、一九〇四年末武北村の第一回動員馬匹数五六頭であった(「末武北村庶務ニ関スル上達下達各所往復書類」)。
表2 玄米配当量と納付方法 (1904年11月)
町村名配当量集荷場所
〃 期日
備 考
久保村2707トン積15輌
下松町140積残5俵
末武南村224下松駅
末武北村60012月1日
米川村230
中須村240
小計1,704
7カ村2,060福川駅7トン積18輌
12月2日積残分用1輌
7カ村1,740徳山駅7トン積15輌
12月3日積残45俵
合計5,5041輌113俵積
「米川村庶務一件」による

 一九〇五年(明治三十八)一月旅順陥落を祝って末武北村青年団と交誼会は花岡八幡宮楼門前に長さ二間半、幅六尺の大角燈を吊るし、一ノ坂に提燈九個でアーチを作り、村内では提燈行列が行われた。八幡宮の大角燈は下松町からも見えたという。五月バルチック艦隊戦のときは祝捷会が開かれた(「青年団ニ関スル町内規約」村上家文書)。
 出征軍人の出迎えは国民の戦意高揚のため盛大に実施された。末武北村は凱旋軍人歓迎費二九五円のうち、三〇円をかけて村境に三つの凱旋門を建設し、帰郷当日は村長をはじめ村会議員、尚武会会員、赤十字社員、愛国婦人会員、そのうえ小学校生まで動員して下松駅まで出迎え、花岡八幡宮社頭で万歳三唱のうえ解散、全員帰郷ののち祝賀会が開かれた(「末武北村村会一件物」)。米川村は出征兵士に対し、青年会や尚武会から酒肴料や郵便葉書、布等を寄贈し、帰郷兵に対しては盛大な歓迎会を催した(『米川村庶務一件』)。このように各村で盛大であったのは、日清戦争より日露戦争の方が動員兵士数が多く、また戦意高揚の政策のためであろう。