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シベリア出兵

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 一九一四年(大正三)日本がドイツに宣戦布告すると華陵青年団は他に先んじて恤兵寄附金を送金し、これが美挙として東京時事新報、関門日々新聞、防長新聞に取り上げられ報道された(「青年団ニ関スル記録」村上家文書)。末武北村全体では第一二師団へ干草五〇〇〇貫を供出した(「末武北村勧業ニ関スル例規」)。
 久保村の出征軍人数は表3のとおりである。日露戦争は従軍者が多く、第四二連隊のシベリア出兵者全体のうち死者二九人、重傷九人、軽傷二一人(「防長新聞」大正八年十月八日付)であったが、久保村は全員無事帰郷した。
表3 久保村の従軍者数
従軍者数左のうち
戦死廃兵
日清戦争2940
北清事変3220
日露戦争10964
日独戦
シベリア出兵
3700
満州事変
(1931~33)
13130
「久保村郷土誌」による

 県は一九一九年(大正八)告示を出し、シベリア派遣軍の葬儀は遺族に負担させず、軍人優待会や尚武会等の経費で行い、止むをえない場合は公費支出も差支えないものとすると指導した(「米川村庶務例規」)。第四陸軍病院ネルチック分院で一九年九月十五日笠戸島出身の東風浦丈助上等兵が死去した。この上等兵の自宅での葬儀参列者は郡長・村長・知事代理・分署長・愛国婦人会員等約一〇〇〇人にもなった(同、大正八年十月十六日付)。同年七月一日の末武北村の講和祝賀は①各戸国旗を掲げ夜間は軒提燈を掲げること。②午後七時より各戸一人以上花岡小学校に参集し提燈行列をすること、であり、村内の軍事に関する行事は盛大化する傾向にあった。