表12 下松町の隔離病舎費内訳 (1912年) |
円 | |
消毒薬費 | 202.730 |
消毒的清潔法施行費 | 198.149 |
医師手当 | 310.000 |
諸 費 | 646.579 |
計 | 1,357.458 |
「下松町庶務一件」による |
一九一〇年(明治四十三)大阪神戸地方にペストが流行したが、下松地域は無事であった。だが翌年疑似コレラやジフテリア等が流行し、下松町に患者一七名が発生し、「近年比類ナキ多数ノ発生ニ付、従テ費用ノ多額ヲ要」(「下松町事務報告」)する状況であった。衛生費は年々膨脹し一九一四年(大正三)一〇〇〇円、一五年一三〇〇円、一六年二八〇〇円、一七年二四〇八円となっていった。下松町の人口増加は伝染病患者を増加させ、この反対に人口減少の米川村は伝染病の発生は年一名か二名であり、皆無の年もあった。だが一八年のスペイン風邪の流行は大藤谷や温見地域にも流行した(「米川村事務報告」)。
一八九五年(明治二十八)久保村で避病院建設案が村議会に提出されたが、久保村は集落が点在しており、伝染病患者の村内運搬は病毒伝播の恐れがあるとし、病院建設を猶予し、健康者を移転さすことで対応しようとした。だが、九七年に建設を計画し、村費六七円余で寺カ迫に建設され、一九二六年(大正十五)に改築された(「久保村村会会議録」)。また久保村は山陽道の沿道であるため旅行者の発病も問題であった。
末武北村は久保村と同様に一八九五年避病院建設を財務上の理由から延期し、多聞院・教応寺・法静寺・閼伽井坊・福円寺・蓮生寺の六カ寺を隔離所に指定し、天幕二張を購入して伝染病の発生に対応した。だが九七年一四〇〇円余をかけて病舎七棟五四坪を建設した。一九一九年(大正八)病舎が狭くなり、下松町と同様に予算二八〇円で仮病舎建設で伝染病の発生に対応しようとした(「末武北村事務報告」)。米川村は一九〇一年(明治三十四)県税補助を得て隔離病舎四棟を建設し、一九二一年(大正十)に四七〇〇円余をかけて改築した(「米川村事務報告」)。