ビューア該当ページ

移民

669 ~ 670 / 1124ページ
 本県の海外移民は一八八五年(明治十八)以降始まった。都濃郡内の移民が増加するのは九七年以降であった。移民のうちには成功をおさめた人があったが、失敗した人も多い。官約移民は九一年以降都濃郡から四七二人が渡航した。山口県の移民数は一万人余であった。九四年官約移民が廃止され、移民は民間会社で取扱われた。日清戦争後移民先は中国、満州、韓国などへ転じた。移民の多くは小作農民であり、労働者としての渡航であった(『山口県政史』上巻)。九九年都濃郡の移民数は、ハワイ単身八一五人、夫婦一一七組、合衆国単身二人であり、このうち貯金のない者、単身三三九人、夫婦五四組もあり、苦労が多かったであろう(『山口県会史』上巻)。
 末武北村は一八九八年七九人、九九年一五三人の渡航者があった。一九〇一年以降は帰航者が多くなった(「末武北村事務報告」)。米川村から一九〇二年ハワイへ八人が渡航した。米川村出身の移民は九八年現在で単身者三人、夫婦四組で、このうち夫婦一組は貯金がなく、貯金額二〇〇円以下がほとんどであった(「米川村庶務一件」)。一九一三年(大正二)の米川村の海外現在者数はハワイが最も多く一五人、ブラジル二人、ペルー一人、合衆国一人、満州二人、計二一人、このうち瀬戸村の出身者が一三人あり、一人を除いて一二人がハワイであった(「米川村海外渡航人名簿」)。下松町は大正期になると移住先が多岐にわたり表13のようになる。アジア各地に移住先が変化した。
表13 下松町の海外現在者数と渡航者数
19121915
 移住先
 北米8( 2)21(35)
 ハワイ69(31)44( 75)
 ペルー5( 0)
 ウラジオストック4( 0)1( 5)
 インド0( 3)0( 3)
 シンガポール3( 9)2( 9)
 清国17(33)27(36)
 満州18(21)13(23)
 カナダ4(10)
124(99)112(196)
1. 「下松町事務報告」による
2. ( )内はその年度の渡航者数