ビューア該当ページ

末武川の洪水

670 ~ 671 / 1124ページ
 下松地域最大の河川である末武川の氾濫は大きな被害を引き起こした。一八九四年(明治二十七)七月二十四日の暴風雨は、末武北村の住宅一戸と長屋一戸を半壊し、掘立小屋五棟を倒壊した(「末武北村事務報告」)。九七年九月二十九日には切戸川が増水したが、水防夫を繰り出しやっと防ぐことができた。だが豊井村は水防費に三〇円を支出しなければならなかった(「豊井村事務報告」)。一九〇二年(明治三十五)八月十日の暴風雨で末武北村と生野屋村の堤防三五カ所、一三九〇間が決壊した。この被害は広範囲にわたり、末武北村の荒地となった面積は五二町余にも及んだ。翌年一月から県費の助成を得て二年継続の補修工事が起工された。工事費総額一万八〇〇〇円余、一年次工事は七月に竣工した(「末武北村事務報告」)。またこの洪水は中村小学校の校舎を破壊し、一九〇三年一月から全面的に改築された(「末武北村事績概要」)。この洪水を契機に和田の耕地整理が実施された。
 一九〇二年の洪水による復旧工事が終わらないうちの翌年五月十八日、下松地域は再度暴風雨に見舞われ、末武北村の被害は暗渠破壊一カ所幅二間、長さ五間、堤防決壊三カ所二三間、国道の橋破損一カ所、里道破壊三カ所八五間、里道橋流失二カ所、田埋没二カ所五畝余、山林流失三畝余と大きい被害であった(「末武北村事務報告」)。末武川など河川の氾濫は、明治になり里道の改修や山林の乱伐等による土砂の流出によるところが大きく、砂防・護岸工事が必要であった。一九〇四年(明治三十七)末武南北両村は末武水害予防組合を創立し、県事業外の治水工事や応急工事に対応した(『花岡郷土誌』)。
 一九〇二、三年の末武川の水害は上流の米川村でも被害が大きく、両年の継続事業としての道路橋渠災害復旧工事費総額五六一二円余、うち半額二八〇六円余は県費補助であった。一九一〇年(明治四十三)十月復旧工事費の計算違いを県が指摘し、総額は四八〇九円余であるから県費補助額は四〇一円余給付過ぎとされた。返済命令を受けてから三カ月先の一一年一月までに返済をせまられた。米川村は米川小学校の改築中で、その経費を村民に賦課しており、返済の目途がたたなかった。そのため米川村は四カ年年賦返済を願出たが許可されず、二カ月間納期をのばして村税追加戸数割を徴収し返納した(「米川村庶務会務」)。
 一九一八年(大正七)七月十日から十一日にかけて下松地域は豪雨となり、久米村下須川の堤防二カ所が決壊し、久米・太華両村の田畑に被害がでた。また同年八月上旬の豪雨は広範囲に被害を出し、その被害額は花岡一九七〇円、加見一五六三円、富岡二七二一円、夜市一三五八円、湯野二八六〇円であった(「防長新聞」大正七年八月七日付)。一九二三年六月には都濃郡一帯が豪雨にみまわれ、虹ケ浜の山陽線に岩石が落ち二時間余不通となる事故があった(同、大正十二年六月二十二日付)。翌二四年秋の豪雨は末武川の香力付近の堤防が決壊し一〇数町歩の田畑が水没した(『花岡郷土誌』)。
 一九二六年七月六日夜からの豪雨は切戸川を増水させ、七日朝方に至り殿ケ浴橋と柳橋が落ち、ついに堤防が切れ下松市街地が浸水した。浸水戸数約三〇〇戸、堤防破損一〇カ所に及び、下松町は普門寺と周慶寺を炊出所とし、食糧を配給するなどして対応した。どうにか七月中には復旧することができた(「下松町事務報告」)。