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公設消防組

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 消防組は各村内各字毎に設置されていたが、一八八七年(明治二十)以降統合されていった。当時の消防組の概要をのちの末武北村の水火災消防規則からみるとつぎのようになっている。戸数により消防夫の人数を決めており、西和組(西河原、和田)は一一〇戸であるので消防夫一〇人、その他は一六六~一九二戸であるので二〇人である。各組には組長一名、伍長数名を公選し、費用は連合村の災害予防費から支出した。さらに違反者に対する罰則規定まであった。消防器具はフラフ(旗)、提燈、龍吐水、梯(はしご)、水桶などであった。県令によって公立消防組編成の準則が示され、この準則にもとづき一八八八年三月、末武上村・末武中村・生野屋村連合村は各村毎三組の公立消防組を組織し、職員計七〇人とし、火災現場では警察官の指揮を受けるものとした(「末武北村庶務ニ関スル上達下達各所往復類纂」)。
 一八九四年(明治二十七)公布の消防組規則は市町村単位の公設消防組の結成を奨励した。下松町は九〇年設立の私設消防組を九七年公設の消防組として豊井消防組を設立し、町制の施行によって一九〇一年(明治三十四)下松消防組と改称した。この二年間に村費一八〇円余をかけ消防器具を整備した(「豊井村事務報告」『大下松大観』)。さらに一九〇九年矢島作郎ら八七人が町費へ五二二円余を寄附し消防組を拡充させた。
 末武南村で一番人家の多い大海町壮年団消防組が一九一〇年に設置され、翌年大海町青年会消防組と改称され、警鐘台が新設された。そののち一三年西市に、一六年(大正五)平田に消防組が新設された(『末武南村郷土誌』)。一七年末武南村は村内を五部に分けて消防組を設置した。すなわち第一部は平田、尾尻、藤光、第二部西市、第三部大海町、東開作、西開作、第四部笠戸、第五部深浦とし、設備・修繕費のうち半額は各部落の寄附で支弁し、消防夫は青年会会員から選定することにした(「末武南村庶務一件」)。二一年公設消防組として認可され、二八年(昭和三)第六部として江ノ浦に消防組が設置された(『大下松大観』)。
 久保村は一九〇二年(明治三十五)久保市消防組を組織し、三〇年(昭和五)十二月に至って公設の久保村消防組に組織変更した(『久保村郷土誌』)。
 笠戸工場消防隊は工場設立とともに一九一八年(大正七)に設置され、手押ポンプ二台を保有し、隊員五九人で組織された(『大下松大観』)。同年笠戸工場鋳物工場から出火し笠戸工場消防隊が消火にあたったが、同工場を半焼(損害一万円)するほどの大火であった。この火事には下松町および末武南村の消防組も出動した(「防長新聞」大正七年九月五日付)。二三年十一月二十一日、下松町能行の火事にも笠戸工場消防隊が駆けつけ、下松二消防組とともに消火にあたり、さらに末武南村の消防組も出動した(同、大正十二年十一月二十五日付)。
 下松町新地から一九二七年(昭和二)七月二十九日出火した。旱天続きのため火の回りが速く、延焼一三戸、被災者五〇人余の大災害となった。下松町は急造バラックを建て被災者を収容し、また一般より義捐金を募集したが、その額は一五一八円に達した。県からは罹災救助金四八二円余を下付された(「下松町事務報告」)。