ビューア該当ページ

米騒動と窮民救助

674 ~ 675 / 1124ページ
 下松地域の米騒動は騒動にまでは至っていない。だが各地で見られるように米価騰貴による脅迫やデマなど不穏な動きはあったであろう。一九一八年(大正七)の異常な米価の騰貴で、下松地域でも米の廉売が行われた。同年八月十三日、笠井民蔵は下松町信用組合で一升四四銭のところ三五銭で廉売した。太華村では八月九日現在内地米三九銭、外米二〇銭五厘であった(「防長新聞」大正七年八月十四日付)。徳山で町民が集り廉売を要求した八月十五日、矢島専平は白米一五俵を三〇銭で廉売し、石田梅松・海本亀次郎は毎日二俵を一四日から五日間四二銭で廉売した。下松町は町税等級二〇等以上の納税者から寄附金一五〇〇円を集め、一〇~一五銭安で販売する予定で廻米を鈴木商店に交渉中であった(同、八月十五日付)。翌十六日は太華村で騒動となり、五名が逮捕された。一升四五銭となるに至り、末武南村は同日九時から村会を開いて基本財産金一〇〇〇円を繰入れ、翌十七日から米穀商を通じて一升二九銭で廉売することに決した(同、八月十八日付)。結局騒動には至らなかったが、太華村の動きに対応したものであった。県は盆過ぎに県内富豪から廉売寄附金を集めた。このうちに上原乙治と矢島専平は各一〇〇〇円、笠戸造船所は一万円を寄附し、久原房之助は萩町へ一万円を寄附した(同、八月二十日付)。また県は恩賜振恤券を配布し、施米を実施した(「米川村庶務一件」)。
 米騒動後の一九一九年(大正八)、県は貧民救済資金を配分した。各町村はこれを基金として窮民救助資金を設置し、毎年村費より蓄積した。米川村は同年十二月に資金制度を公布し、食料、治療費、小屋掛料、埋火葬費を給与するものとして、毎年村費から一〇円以上を蓄積した(「米川村村会会議録」)。末武北村も同年米廉売の寄附金残金を合わせて救済資金を設置し運用した(「末武北村村会会議録」)。
 窮民救助は県の行うものと各町村単位のものがあった。県の救助米下附願を見ると孤老や疾病者が多く、焼失家族の救助などある。特異な例として末武北村の窃盗罪在監者の家族の救助があった。末武北村の救助方法は無資産無救助者に限り、食糧費日別一〇銭、看護料日別五銭、小屋掛料六円以内を支給するものであった(「末武北村会務ニ関スル上達下達各所往復類纂」)。久保村や米川村では行旅病人の救助があった。久保村で一九一五年(大正四)に仮埋葬した旅行者の費用は原籍地へ請求できた(「久保村事務報告」)が、一三年米川村で死亡した旅行者は原籍不明で請求できなかった(「米川村事務報告」)ように、行旅病人の救助費は沿道町村の負担であった。