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囲穀

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 一八八〇年(明治十三)県は前代からの囲穀を公売してその代金を各町村に配分し、各町村に改めて囲穀を貯蔵させることにした。末武上村外二カ村の例をみると、末武上村・末武中村・生野屋村の大字三カ村に分れて囲穀が貯蔵されていた。末武中村は同年三三一円の下渡しを受け、「貯穀並保存方法書」を定めて貯穀することにした。この方法書によると、一石一一円に換算して三〇石九升九勺を購入貯蔵し、毎年新穀を入替え、欠米は大字共有金で囲い戻しすることにした。末武中村には貯蔵倉がなく末武上村の郷倉に貯蔵したが、八二年字西河原に囲穀倉を新設し、貸付利子により増殖した(「末武中村備荒囲穀簿」)。八四年の生野屋村の囲穀高は二〇石余、八七年に囲穀倉庫を新築した(「生野屋諸帳簿引渡目録」)。
 一八八九年(明治二十二)市町村制の施行とともに囲穀は各町村の共有財産へ編入された。温見村の囲穀米は入札、売払われて共有金として貸付利殖され、囲穀倉庫も売払われた(「米川村部落有財産処分決議書」)。久保村の囲穀も九二年から公売され、その売却代金を年八歩以上で貸与増殖した(「久保村村会会議六」)。
 囲穀は大正期になるとほとんどの町村が金銭貯蔵となった。一九一四年(大正三)末武北村の大字有囲穀を統一するとともに、すべて金銭に交換された。また不要となった囲穀倉庫は花岡尋常高等小学校の専用倉庫に充てられた(「末武北村庶務一件」)。