一八八八年(明治二十一)県内の郵便局は一一二局、電信局は七局であった。九七年ごろから郵便局や電報取扱局は急増し、一九〇五年(明治三十八)県内郵便局一五八局、うち電報取扱局六二局に増加した(『山口県政史』上)。一八八〇年当時の都濃郡内郵便局をみると徳山・花岡・福川・須々万本郷・須万・鹿野・大道理・下松の八局があった。うち下松は四等局、花岡は三等局であった(「山口県都濃郡治一覧表」明治十三年)。
花岡郵便局は花岡、米川、久米を管轄区域として一八七二年(明治五)に開設され、八五年から貯金事務を、九一年から為替事務を、九九年から小包事務をそれぞれ開始した。一九一一年(明治四十一)からは電信電話事務を開始し、一九二八年(昭和三)局舎が新築された(『花岡郷土誌』)。末武北村は下松局の特設電話区域外であったが、一七年(大正六)から同区域内へ併合された(「末武北村村会会議録」)。
下松郵便局は一八七四年(明治七)に開設され、九〇年から貯金為替事務を、一九〇〇年から電報事務を、一〇年から電話事務を、その翌年電話交換事務を開始した。電話局開設にあたり、下松町は交換局設備金四三五円余のうち三〇〇円を逓信省へ寄附した。一九一六年(大正五)から保険事務を、二六年から年金事務を開始した(『大下松大観』)。下松分署の警察電話は一九〇〇年から三カ年継続事業として設置されたものであった(『山口県会史』上巻)。
笠戸島郵便局は一九二一年(大正十)開設され、三〇年(昭和五)に新築された。三四年から電信電話事務を、三七年交換事務を開始した(『末武南村郷土誌』)。久保村は花岡郵便局の管轄区域であったが、久保郵便局は一九一五年(大正四)開設され三二年(昭和七)新局舎が完成し電話事務が開始された(『久保村郷土誌』)。米川村の配達区域は、大字大藤谷と温見が八代郵便局、下谷の一部は須々万郵便局、その他は花岡郵便局の管内に分かれていた。一九三〇年下谷に米川郵便取扱所が開設され、三八年から電話事務を開始した。三九年村役場に特設電話が設けられた(「米川村村勢台帳」)。
下松地域に電灯がついたのは大正期の中ごろであった。笠戸島は少し遅れ一九二六年(大正十五)十一月十一日に初めて五〇〇灯が点灯し、島民の希望が成就した(「末武南村事務報告」)。だが工事費二五〇〇円は全額島民の負担とされたため、末武南村は地方発展事業費積立金のうちから一四パーセントの三五〇円を補助し、島民の負担を少し軽減させた(「末武南村会議録」)。