これを受けた民政党系の黒崎山口県知事は、各市町村に対して一九二九年度予算の削減と三〇年度当初予算の前年比一五パーセント減を命じ、緊縮の徹底を図った。そのため、三〇年九月、県下の市町村長会も、高級公務員の減俸や恩給法の改正などを柱とする「宣言」を採択し、三一年一月、徳山町における町村長集会も、「国民負担ノ軽減」に関する請願を決議し、財政緊縮を行った。下松地域の各町村も財政緊縮の趣旨に対応した措置を余儀なくされ、さらに金本位制に伴う金の海外流失がもたらした景気の冷え込みが重なって、町村財政は著しく緊縮した。
その様子を山間部の米川村に例をとって、歳入出決算額の年次的推移で示すと、図1のとおりである。すなわち、すでに二七年度から歳入出決算額が著しく減少しており、さらに二九年度の歳出が落ち込み、翌三〇年度において、歳入・歳出のいずれもが最も縮小していることが読み取れる。
図1 米川村歳入出決算額の推移
(米川村村勢台帳から作成)
この財政緊縮方針は三一年度まで続けられ、例えば花岡村の予算編成においては、村長報酬の二〇パーセント、同交際費の五〇パーセント、村会議員日当の五〇パーセント、助役以下の吏員報酬の一〇パーセントを削減するという厳しい措置が取られている(「防長新聞」三月四日付)。