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下松町役場建設問題の紛糾

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 一九二九年二月、小野正助下松町長は、役場庁舎の腐朽と下松小学校校舎の狭隘を理由に、それぞれを二九年度事業として建築することを町議会に提案し、その議決を得ていた。ところが、同年七月になると、政友会から民政党への政権交代で、緊縮財政が打ち出されたため、同年度予算の削減を実行しなければならなくなり、町役場の移転新築が、政党間の対立を背景にして、大問題になった。
 折しも、二五年に就任した小野町長は、その任期満了を八月七日に迎えることになっており、町財政の緊縮と町長退任を求める町政批判派の攻撃に直面し、町議会も「町長反対派」と「町長擁護派」に分かれ、町内を二分する形勢となって、多数派工作に凌ぎを削った。しかも、七月二十九日には、東町区長以下の町政批判派が町長更迭の決議書を手交して、翌八月四日の町長選挙町会で、小野町長を無給の「名誉町長」にしてしまうことを図っている。しかし、下松町議会の小野町長派は、わずか一票の差でその主張を退け、有給町長としての小野町長を再選するところとなった(「防長新聞」八月四日付)。
 そのため、この結果を不満とする民政党系の反町長派は、午後七時から大黒座に「町政批判大演説会」を開き、引き続きその場を「町民大会」に切り替えて、小野町長を批判する宣言書と五カ条の決議文を作成・議決した(同八月五日付)。これに対して、小野町長も町政が政党の党勢拡張の具に利用されていると反論し、二派の対立は頂点に達した(同)。
 こうして、浦町の区民大会では、同地区出身の町会議員が小野町長擁護の行動をとったとして辞職させられ、あるいは八月十一日には、日本大衆党下松支部の浄西寺における町政批判演説会で、町長および町長擁護派議員の辞職勧告が議決され、ついに十三日には、東町区長以下二九人の区長がともに辞職届を提出する事態にまで立ち至った(同、八月十五日付)・「下松町役場庶務一件」)。
 その後も、町長不信任派は税金不納同盟を結んで気勢を上げ、小野町長の下では七月末日までに納付すべき町税戸数制の納入を拒否するという者が四九〇人に、九月五日までの県税の納入を拒否するという者が一五〇人にも達し、反町長派議員が町民千数百人の署名を取り集めて黒崎山口県知事に陳情するに及んで、町民各層を巻き込んだ混乱となった。
 とくに、日本大衆党下松支部は、演説会を大黒座で何度も開催し、朝原健三代議士などの応援を得て、町政批判の一環として下松と深いかかわりをもつ久原房之助代議士へ糾弾の鉾先を向け始めたが、臨席した警官の中止命令で、その発言は押さえ込まれている。
 続いて、九月二日の大黒座における町長弾劾演説会も、警官の中止命令で弁士が降壇させられる一幕で緊張したものの、ついに町長と町長派九議員の不信任を議決している(同、九月六日付)。さらに同月十一日には第三回の町長弾劾演説会と町民大会が開かれ、町税不納同盟の結束強化や、町役場職員の連袂辞職などで、町政はその執行機能を失った。
 このような事態を解決するため、九月中旬に元町長の調停や県当局の斡旋が始まり、紛糾の発端となった町役場の建築問題については、ようやく九月下旬の下松町緊急協議会で建築延期の合意に達し、十月八日の町議会で正式決定をみた。しかし、小野町長への非難は、それだけでは収束せず、九月末までに弾劾演説会も五回に及んでおり、ついに十二月二十四日付をもって、小野町長は辞任に追い込まれている。
 その後、およそ二カ月間ほど町長の不在期間が続いたが、翌三〇年二月には、後任に金清要一町長が決まり、町財政の整理緊縮も行われたので、「町政革新」をめざした「下松町革新団」は三月二十一日、要求はおおむね達成されたとして、町内各戸に声明書を配布し、解散するに至った(同、五年三月二十四日付)。ここに、前年七月以後の町政の紛糾は、一応の決着を見た。