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町村税の滞納と納税奨励

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 日露戦争後、疲弊した地方財政の再建のため、内務省は地方改良運動を展開し、その三大必須事項の中心として、全国の市町村は、その財政安定を目的とした納税成績の向上に努力していた。しかし第一次世界大戦以後、慢性的な不況が続く中で、各市町村の「滞納矯弊」の実績は容易に上がらず、末武南村の場合は、前項で見たように、税金滞納が昭和恐慌下で顕著な傾向になっており、下松町の場合も、日立製作所笠戸工場の人員整理などが影響して、県税と町税の滞納者が目立ち始めている。とくに、下松町にあっては、一九二九年に役場庁舎の新築をきっかけとした町長排斥運動が展開され、税負担の軽減と町財政の緊縮を求める町民大会は、町税の不納決議で目的完遂を図ったことから、表2に示したような滞納者数となり、税金の収納が重大問題となった。
表2 下松町の税金滞納者
年度19271928192919301931年
 税種
国 税12517?人
県 税647912379?人
町 税78108288135
(△452)
?人
(注) △印は1930年度に持ち越した人員数
資料「事務報告書」(1928~31年度)

 この滞納の内訳は、「防長新聞」が九月十日付で報じたところによると、七月三十一日までに納付すべき町税戸数割の未納が三四二戸・三三〇〇円余で、九月五日までに納付すべき県税営業者の未納は一五〇人に達していた。また翌三〇年の「下松町事務報告書」は、「昭和四年度ニ於テ特殊ノ事情ニ因リ生ジタル町税滞納者大約四百五十名、滞納税額約五千円ヲ持越シタ」とし、そのため三〇年三月、新任の金清町長は「雨天ニモ拘ラズ草りヲ穿チテ」滞納者に「滞納ノ非」を説いて回った、と記載している。それでも「尚ホモ悪弊ニ押レテ納入ヲ肯ゼザル五十有余ノ者」があり、新年度の四月以降も「町政革新派」を名乗って税金滞納を続けたため(「防長新聞」四月七日付)、下松町は、ついに財産の差押処分を執行し、競売前までには、すべて完納させている(「昭和五年事務報告書」)。
 このような税金滞納問題の紛糾をきっかけに、三〇年五月、下松町は「納税奨励規則」を制定し、区内の納税者全員が一年間をとおして各納期内に町税を完納したところには、その千分の二の金額を奨励金として交付する制度を設けている。一方、比較的税金の滞納者が少なかった米川村も、しばしば制限外課税を行い、三三年には、「納税奨励規則」を制定し、納税成績優良区に対する表彰や奨励金の交付を開始し、さらに三七年「納税組合設置奨励規則」を設けて、納税者の集団化を図っている。また、花岡村では、三五年十二月、村税の「督促及滞納処分条例」を制定して、納税成績の向上を図るなど、各町村はともに、納税意識の向上と徴税力の強化に努めている。