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公共施設工事の増加

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 昭和恐慌の不況下にあって、財政の緊縮と減税が叫ばれながらも、その一方では公共事業の増加による景気浮上を期待する声が強く、特に下松地区の各町村は、学校校舎や伝染病舎の増改築などに迫られ、町村財政の運営は困難を極めていた。たとえば、花岡村にあっては、一九二九年において、花岡小学校の増築と中村小学校の移転新築に伝染病舎の新築が重なり、米川村にあっては、二九年の巡査駐在所の新築に、翌年の大藤谷分教場の新築移転と、翌々年の米川小学校の増改築などが続いている。また、下松町では、工業人口の増加に伴って、小学校の大増築が必要になり、二九年には下松小学校が増築され、翌年には豊井小学校の移転改築が行われ、さらにこの三〇年には、役場庁舎や公益質屋の新築が始まり、翌々三二年には伝染病舎の土地買収と新築工事が行われている。同様に末武南村でも、三三年には、深浦小学校江ノ浦分教場の建築を、基本財産を取り崩して行っており、各町村の苦しい財政運営が続いた。

花岡尋常高等小学校の正門(1931年1月)


花岡村の小学校建設

 とくに、三一年十二月、積極財政の方針を掲げた犬養政友会内閣が成立し、地方財政の運営方針も大きく変化したことから、大型の土木建設事業も可能になり、下松町では、「臨時産業振興委員」が産業振興に関する諸調査に乗り出し、下松商工会も下松築港期成同盟会を組織して、下松町の計画に呼応した。その結果、三四年には五二間の下松港桟橋が架設され、これが三六年の県営下松港の改良計画へと発展し、産業基盤の整備が進むことになった。
 同様に、末武南村においても、すでに三〇年と三二年の二度にわたって、大海町の港に笠戸島巡航船桟橋の建設を求める請願書が出されており、新造渡船の建造に引き続き、三四年四月に花崗岩の桟橋が築造されている。また、広島逓信局管内にあって、通信機関の普及発展から取り残された形になっていた末武南村の笠戸島や、谷間の米川村にあっては、早期に電信電話を架設することを求める声が起こり、末武南村では三〇年十一月、米川村では三五年から、しばしば陳情を繰り返し、三三年には笠戸島へ、三七年には米川村へ、それぞれ電信電話を架設させている。