一九三一年九月の満州事変の勃発と、翌年五月の五・一五事件の発生は、深刻な財政危機とあいまって、国民の非常時意識を高めることとなり、官吏に対して「時局匡救」のための諸政策の遂行とともに、服務規律の厳正さと職務精励を要求するところとなった。特に農村部にあっては、「自力更生」を旗印とする精神主義的な農村救済策が進められることとなり、有給吏員に向けられる目には厳しいものがあった。
そのため、翌々三三年九月、米川村において、村長が役場の有給吏員に対して「時ハ所謂非常時ニシテ国民一般緊張ヲ要スルノ時」と訴えて、次のような詳細な綱紀引き締め項目を通達している。
一、出勤時間ヲ励行スルコト
一、出勤シタル際ハ必ズ出勤簿ニ捺印スルコト
一、病気、賜暇、其他ノ事故ニヨリ欠勤セントスルトキハ必ズ成規ノ手続キヲ履行スルコト
一、出張巡回ノ際ハ帰庁後必ズ復命スルコト
一、執務時間中濫リニ他出セザルコト、若シ他出ノ要アルトキハ其旨申出ツルコト
一、執務時間中新聞ヲ耽読セザルコト
一、常ニ法規ノ研究ニ志シ、事務ノ刷新ヲ期スルコト
一、文書ハ常ニ完結・未整理ニ区分シ、期限事務ハ必ズ期限ヲ厳守スルコト
一、宿直ハ当番各自ニ於テ相当ノ責任ヲ持チ、漫然他人ニ依頼シテ顧ミズ、又ハ使丁ニ一任スルガ如キコトナキ様注意スルコト
一、外来者ニ対シテハ常ニ懇切丁寧ニ扱ヒ係員不在等ノ際ニ於テモ已ムヲ得ザル場合ノ外、其要事ヲ弁セシムル様取リ扱フコト
(「昭和九年米川村事務雑件」)
また、工業化し始めた下松町にあっても、三六年四月、経済更生計画樹立町村の指定を受けたことをきっかけに、夜ごとの部落懇談会で主旨徹底を図りながら、翌年一月には次のような「下松町是」を制定し、「官民」を一体とする体制のもとで、三月から経済更生計画の実施に乗り出している。
下松町是
一、聖旨ヲ奉体シ至誠奉公ノ精神ヲ宣揚スヘシ。
一、立憲ノ本旨ト自治ノ精神トヲ体得シ挙町一致円満ナル町治ノ興隆ヲ期スヘシ。
一、敬神崇祖ノ観念ヲ敦シ持テ郷土精神ノ発揚ヲ期スヘシ。
一、教育教化ノ普及ヲ図リ以テ町文化ノ進展ヲ期スヘシ。
一、産業ノ発達交通ノ利便ヲ講ジ以テ経財及ビ民力ノ充実ヲ図リ社会ノ進展ニ資シ町民生活ノ向上ヲ期スヘシ。
一、保険衛生ノ施設改善ヲ促シ町民ノ体力増進ヲ期スヘシ。
一、社会事業ノ施設充実ヲ図リ以テ隣保共助ノ成果ヲ期スヘシ。
一、警備施設ノ充実ヲ図リ以テ非常変災ニ処スル救護ノ万全ヲ期スヘシ。
やがて、このような精神主義的な経済更生運動は、三七年七月の日中戦争開始以後の、国民精神総動員運動へと、拡大・吸収されて行くことになった。