一九三九年十一月、四カ町村の合併による下松市制が実現し、翌十二月に三〇人の新市議会議員と弘中伝人新市長が決定し、下松市の政治体制が整うと、翌四〇年には、「新生下松市」を目指した市民意識の高揚が図られた。とくに「市章」の制定は、とかく旧町村の地域主義に囚われ勝ちな住民感情を、新たな市民意識へと向かわせる効果が期待できることから、広く一般に公募して決定する方法を採用し、市民からの応募を熱心に呼び掛けている。
その結果、最終的には同年七月の第八回下松市議会で、図5に揚げたような下松市章を決定し、以後市民の間で親しまれる象徴として、長く使用することになった。この図案は、下松の地名とゆかりの深い松葉でもって、下松の「下」の字と笠戸湾の静かな波を表し、その周囲を市民の「和」を表す丸で形取ったものとされている。
図5 市議会による市章の決議書