一九三七年七月、軍部が中国大陸において慮溝橋事件を引き起こし、日本と中国との間に戦争が始まると、政府は同年九月に「国民精神総動員計画実施要綱」を定め、翌三八年四月には「国家総動員法」を公布して、すべての物資と国民を戦争目的遂行のために総動員する途を開き、人々を戦争に駆り立てた。ちょうどこのような時期に市制を施行した下松市は、その当初から戦争遂行を至上目的とする国策の推進を役割に担っての発足であった。すなわち、徴兵事務の完遂を始めとし、出征遺家族の後援や防空演習、あるいは国債の消化や資源の回収など、「銃後の守り」の名の下に、すべての市民を戦争に巻き込んで、戦時の諸施策を強力に推し進めた。