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軍人への援護活動

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 日中戦争の開始とともに、下松地域の各町村からも、軍隊に召集される者が多くなり、応召者に対する援護や、あとに残された軍人遺家族への救護・扶助が必須の問題となった。まず、各市町村の兵事課が担当した軍人援護事業のうち、入退営者の送迎については、花岡村の場合、すでに一九三六年一月に花岡駅前における送迎会を、村長以下の村吏員、村会議員、学校長および学校生徒、男女青年団員、在郷軍人会員、入退営者出身地区長、赤十字社員ならびに婦人会員などを参列させる公式行事とし、その整列要領や駅構内無料入場者などを文書に定め、従来から一般的に行われていた長旗の持込みや、テープの交換、色紙の投げ合いなどを禁止している(村上家文書「令達綴」)。

出征軍人安全祈願祭の掲示(1937年10月)

 その後、日中戦争が長期化し、欠乏生活を余儀なくされ始めた一九四〇年の段階になると、下松市当局は、「入退営時ノ心得」として、①入営入団者に対する旗幟の全廃、②祝宴の簡素化、③入退営時の付添人の制限、を区長や各種団体長などに通達し、一般市民への「指導」を行わせながら、応召兵の「武運長久」の祈願祭などを厳重に執行した。
 また、現役軍人に対する慰問活動については、各町村長などが、広島や山口、あるいは呉などの在営者を訪問慰問していたことに加えて、日中戦争開始以後は、戦地の在隊者に対する「慰問状」や「慰問袋」の発送に比重を移している。たとえば、三七年八月、県神職会の求めに応じて、花岡村が「武運長久祈願祭」において一戸一銭以上の「皇軍慰問献金」を村民に呼びかけ、約一〇〇〇円を集めたことを始めとし、以後、各町村の婦人会や小学校が一斉に、軍人援護のための募金活動や慰問品の作成に取り組んだ。
 つぎに、軍隊への召集で困窮する軍人遺家族に対して、各市町村の社会課が担当した救護事業のうち、独自の資金的な援護については、三七年九月、花岡村が「軍用公務者援護資金規程」を定め、町税戸数制の賦課額を標準にして、軍用公務者および遺家族への「慰藉援護資金」を募集し始めた。末武南村では、翌三八年、応召軍人子弟に対する小学校および青年学校の生徒の授業料免除を決議している。また、軍人遺家族への生業上の労力援助や家事手伝などは、三八年十月の「銃後援護強化週間」の行事として、盛んに行われるようになった。
 そのほか、日中戦争の激化とともに、各市町村は戦死者の遺骨を迎えることが多くなり、その葬儀を兵事課が主催して行うようになっている。例えば、末武南村の場合、三七年九月、日中戦争の戦傷病死者に対して、村葬を営むことを決議し、翌十月には「英霊」一柱に対して、総経費を約七〇円と決定した。下松町においても、同年九月には三人の戦死者に対して町葬を執行することとし、その弔慰文も町議会で決議した。
 以後、戦争の激化とともに、戦死者の悲報が次々と各市町村にもたらされ、「無言ノ凱旋」をする兵士の遺骨を駅頭に出迎えることが多くなったため、市制施行直後の下松市も、三九年十二月には、駅前広場での「奉迎要領」を文書に明記し、あるいは小学校校庭における「市葬」を各種団体長や関係地区寺院に通達して、これらの行事を遺家族に対する最大の援護行事に仕立てている。

花岡駅への遺骨出迎えを区長に要請する下松市の通知(1939年)